エフライムはわたしのかけがえのない息子、
喜びを与えてくれる子ではないか。
彼を退けるたびに
わたしはさらに深く彼を心に留める。
彼のゆえに胸は高鳴り、
わたしは彼をあわれまずにはいられないと
主は言われる。
エレミヤ書31:20

 

息子は父のもとに行った。
父は遠く離れていた彼を見つけて
あわれに思い、
走り寄り首を抱き接吻した。
ルカ15:20

 

 ヨハネ18:33~38
 Ⅰテモテ5:17~25(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/22:金)


 エフライム(イスラエルの別の呼び方)と同じく、
私たちも、喜びを与えてくれる、大切な、
かけがえのない私の息子だ、
と天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」
と名乗られる方(出エジプト3:14)は言われるのだそうです。

 私たちを責め、退けるたびにますます、
さらに深く私たちのことを心に留め、思い起こして。

 

 私たちのゆえに、胸は高鳴り、はらわたはわななき、
私たちをあわれまずにはいられないようになって。
 

 

 父親に財産の生前贈与を迫り、
それを全部、かねに換えて遠い国に旅立って、
そこで、財産を湯水のように使い果たし、
そのうえ、飢饉が来て食べる物にも困って、
飢え死にしそうな中で父の家を思い出し、帰ってきた弟息子。


 父親は、まだ遠くにいるその息子を見つけ、
かわいそうに思い、
走り寄って首を抱き、口づけした父親のように。

 

 

 大祭司や律法学者、民の長老たちの
ユダヤ人の指導者たちは、
イエスを十字架刑で処刑してもらおうと、
ローマ総督ピラトに訴え出て、
ピラトはイエスに罪を認められなくて釈放しようとするのに、
民衆に、強盗で人殺しのバラバを赦して
イエスを十字架につけるよう
要求し続けさせたのだそうです。(ヨハネ18:33~38) 

 

 【父である神】は、
ご自身が派遣した【御子である神】をそのように扱う者たちを、
あの父親のように、なお、心に留め、憐れみ、
その、イエスが受けられた十字架刑での処刑をもって、
私たち自身である、私の〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑が終わっている者、
死んだものとしてくださるというのですね。

もう、責められる、責任を問われるところは
一点も残っていない者として。


 そして、この、死んで墓に葬られたイエスを、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活させ、
40日にわたって何度も弟子たちに現れさせ、
神の国のことを語らせた後、
オリーブ山で弟子たちが見ている前で、上げられ、
天の、ご自身の右の座に復帰させなさったのだそうです。


 さらに、このイエスを通してもう一人の方、
ご自身がねたむほどに愛しておられる方、
【聖である霊】と呼ばれる方を私たちに派遣し、
この方によって、私たちの心にご自身の御思いを置き、
私たちの心にご自身の御思いがあるようにし、
受け入れる者がご自身と一つ思いになって、
ご自身がしようと思われることをしていくように
してくださるのだそうです。

 

 罪に対しては死んだ者、
神に対しては生きた者としてくださって。(ロマ6:11)
かけがえのないご自身の子どもとして。
今日も。

 

 

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