2015年01月

主を畏れることは、
悪を憎むこと。
箴言8:13

あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、
キリスト・イエスに結ばれて、

神に対して生きているのだと考えなさい。
ロマ書6:11

     (ローズンゲン日々の聖句1/28;水)


 悪を憎むこと。
生まれた時からの私という反逆している霊は死ぬしかない者と
認めることも入るのでしょうね。

 新しく生まれる。
罪に対しては死んだもの、
神に対して生きる者と計算していいのだそうです。
手続きは、全部、
あの方のほうで完了して下さっているのだそうですから。

 天の神、主は、私たち人間の一人一人を取り戻すための2段階を計画されたようですね。
 第1段階として、私たち人間が、ご自身と一緒になって善悪を判断していくことをやめ、自分の理性の判断だけで善悪を決定していく者となっている、その背きを処罰すること。
 天の神、主は、このために天地の造られる前からともにおられた御子である方を、人間イエスとして人の世に生まれさせ、この方を私たち人間の身代わりとして立て、十字架刑で処刑することで、私たち、すべての人間の一人一人を処刑が終わった者との手続きを済ませて下さったのだそうです。
それで、イエスは、十字架上でこの手続きが「完了した」と宣言されたのですね(ヨハネ19:30)。
今、私たち人間は、罪に対して、死んでいるものと計算していいのだそうです。

 そのうえで、今度はもう一人の方、聖である霊と呼ばれる方を私たち人間の一人一人の中に派遣して、この聖である霊と呼ばれる方によって私たちの心に、天の神、主の思いを書き付けて下さって、私たちが天の神、主と思いを共有しながら生きる、新しく生きる者として下さるのだそうです。
 これは、天の神、主からの、私たちへの一方的なプレゼントなのだそうです。

 だから、今、私たちは、このプレゼントをもらいさえすれば、神に対して生きている者と計算していいのだそうです。

キリスト・イエスにつく者は、
自分の肉(生まれた時からの私)を、
さまざまな情欲や欲望とともに、
十字架につけてしまったのです。
もし私たちが御霊によって生きるのなら、
御霊に導かれて、進もうではありませんか(ガラテヤ5:24~25)。
今日も。
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主よ、
あなたの御手には力と勢いがあり、
あなたに立ち向かうことのできる者はいません。
歴代誌下20:6

イエスの言葉:
わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
だから、あなたがたは行って、
すべての民をわたしの弟子にしなさい。
マタイ28:18~1 9
    (ローズンゲン日々の聖句1/21 ;水)


 立ち向かう勢力は、当初から強かったのですね。
最初は、ユダヤの律法に熱心な人たちから。
ついでは、ローマ皇帝による、帝国を挙げての迫害。
合理主義のまな板の上に乗せられ、切り刻まれもしたようです。
 日本でも、秀吉に次ぐ、徳川幕府の5人組や檀家制度による徹底的な迫害。ついには、この道は日本から消え去っていったかのように見えるまでにされたのだそうです。
 キリシタン禁制の高札が下されたのは明治6年ですが、これは形式的なもので、正式には明治22年になってからなのだそうです。
 そして、第2次世界大戦においても、天皇とイエスとどちらが神なのか、どちらが偉いのかと迫れらたのだそうです。ほんの70年ほど前のこと。
 けれども、御手の力と勢いを消し去ることは出来なかったし、これからもできないのでしょうね。

天の神、主の憐みによる、イエスをとおして現された救いの道は、
世界の隅々にまで伝えられ、
自分の的外れと弱さを認める者がこれを受け取っているのですね。
 今までの、「生まれた時からの私という霊」の思いによって動いていた生き方に死んで、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、この方が心に書き付けて下さる、天の神、主の御思いによって生きていくという、新しい契約の生き方へと。今日も。

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主よ、お話しください。

 僕は聞いております。サムエル記上3:9



ティアティラ市出身の紫布を商う人で、

 神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、

  主が彼女の心を開かれたので、

   彼女はパウロの話を注意深く聞いた。使徒16:14


    (ローズンゲン日々の聖句1/14;水)



 私たち人間に話しかけられる方なのですね。天の神、主と呼ばれる方は。

この語りかけに対して、私たちの側で大事なことは聞こうとする心なのでしょうか。


 預言者エリは、少年サムエルに、

天の神、主から語りかけがあったとき、

このように答えるようにと教えたのだそうです。

後に大預言者としてイスラエルを裁いたサムエルの

生涯を貫いた基本的姿勢だったのでしょうね。


 川べりでイエスのことを語るパウロの話を

リディアは心を傾け、注意深く聞いていて、

彼女もその家族も、パウロが語るイエスによる救いを受け取って

バプテスマを受け、パウロを家に招いたのですね。

ここからピリピ教会が始まったのだそうです(使徒16:12~15)。


 天の神、主は、ご自分と心が通じ合う、思いを一つにしあうものをと望まれて、

私たち人間を創造して下さったのだそうです(創世記1:26、ヨハネ17:21)。

 それで、イエスによって私たちの背きの罪を処刑済みのものとし、

新たに、聖である霊と呼ばれる方を私たちのうちに派遣して、

この方によって私たちの心に、ご自身の思いの私たちに関わる分を書き付けて、

私たち人間を、ご自身と同じ思いをもつ者になるようにと

願っておられるのだそうです。


 でも、私たちはなかなかその御思いが分からない者ですが、

分からないからいいやと言うのではなく、

このサムエルのように言いたいですね。

「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と。

今日も。



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誰かが隠れ場に身を隠したなら、
 わたしは彼を見つけられないと言うのかと、
  主は言われる。
天をも地をも、わたしは満たしているではないかと、
 主は言われる。
エレミヤ書23:24
光の子として歩みなさい。エフェソ書5:8
       (ローズンゲン日々の聖句1/13;火)
 日本にも、「天、知る。地、知る。我も知る」とかいう言葉があります。
私たちがどんなに巧妙に隠れても、「わたしは見ている」とおっしゃられ方がおられるのですね。どんなに隠してもあの方には露わなのだそうです。
あの方は光を造り、光と闇とを分けられた方。
この方の前には、暗闇も光の中も同じなのだそうですから。
 自分の理性の判断だけで善悪を決定する者となってしまっている私たち、まずやることは、天の神、主から隠れること、そして自分の実態を隠すことなのですね。
最初の人、アダムとエバが、イチジクの葉を腰に巻いて隠し、木陰に身を隠したように(創世記3:7、8)。
 私たち、天にも地にも満ちておられる方の前に自分のすべてをさらけ出し、見ていただき、知っていただいて、明るみに出された、光に照らされた出来事にしていただき、光の出来事にしていただけるのだそうです。
明るみに引き出された者は、みな、光によって明らかにされ、明らかにされたものはみな、光になるのだそうですから(エペソ5:13)。
 イエスが十字架刑で処刑されて下さって、私たちを処刑済みの者として下さっている今は、どんな罪の実態も、あの方の前に差し出して大丈夫なのだそうです。すでに処刑が済んでいるのだそうですから。
 私たち、日々、出てくる罪の実態を処刑済みのものとして、天の神、主の前に投げ捨てながら、聖である霊と呼ばれる方をお迎えし、この方が心に置いて下さる御父の御思いのままに生きていくようにしていいただけるのだそうですね。光の子らしく。今日も。
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主よ、私の唇を開いてください、
 この口はあなたの賛美を歌います。
詩編51:17

語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。
 奉仕する人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。

  それは、すべてのことにおいて、
   イエス・キリストを通して、
    神が栄光をお受けになるためです
。Ⅰペテロ4:11

       (ローズンゲン日々の聖句1/7;水)

 天の神、主が唇を開いてくださると私たちは賛美の歌を歌うようになるのですね。
ちょうど、聖である霊と呼ばれる方が来られた時、弟子たちはこの方が語らせられるままに他の言葉で神の大きな御業を語っていたように(使徒2:1~4、11)。

 私たち、恵みのプレゼントとして与えられている聖である霊と呼ばれる方の働きの現れをもって、互いに仕えあうようになるのだそうです。
 神の言葉を取り次ぐ働きの現れをいただいている人、奉仕の働きの現れをいただいている人、それぞれに聖である霊と呼ばれる方が働かれるままに働いていくのだそうです。

 すべてのことが、父である方の御思いから出て、御子である方、聖である霊と呼ばれる方によって具体的な事実となって私たちをとおして現れるのだそうですから(ロマ11:36)。今日も。

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