2015年03月

災いだ、主を避けてそのはかりごとを深く隠す者は。
彼らの業は闇の中にある。
彼らは言う。
「誰が我らを見るものか。誰が我らに気づく者か」と。
イザヤ29:15

実を結ばない暗闇の業に加わらないで、
むしろ、それを明るみに出しなさい。
すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。
エフェソ書5:11、13
        (ローズンゲン日々の聖句3/31;火)

 天の神、主と思いを一つにして生きる生き方を止め、
三位一体の神の一人のようになり、
善悪を知るようになった(創世記3:22)人間は、
自分を自分自身の主人にし、
自分の思いを実現することを求めていくものになったのですね。
 そうなったとき、最初にしたことは、自分の裸を隠し、
天の神、主から身を隠すことだったのだそうです(創世記3:7~8)。
それ以来、人は、ありのままの自分を認めようとはしないで、
自分自身にさえ、自分の実態を隠し、
自分の弱さや力のなさ、失敗などを隠していく者になったようです。
 さらに、積極的に悪を謀る者は言うのですね。
「誰が見ているものか。誰が気づくものか」と。
 けれども、この宇宙を造り、人間を造られた方は
言っておられるのだそうです。
「お前たちはなんとゆがんでいることか。
陶工が粘土と同じにみなされうるのか。
造られた者が、造った者に言いうるのか。
『彼が私を造ったのではない』と。
陶器が、陶工に言いうるのか。
『彼には分別がない』(イザヤ29:16)と。

 イエスが
私たち人間の罪のすべてを背負って十字架刑で処刑されて下さった今は、
私たちもイエスに合され、イエスと一緒に処刑されたものとして、
私たちの反逆は処罰済みなされて、
このままで天の神、主の前に出て行き、
私たちの実態を全部、御前にさらし、広げて、見ていただき、
知っていただくことが出来るようにしていただいているのだそうです。

 そして、見ていただき、知っていただいたことは、
天の神、主の承知して下さっていること、
光の中の出来事としていただけるのだそうです。
天の神、主は、私たち一人一人と一つになりたいと願っていて下さるのだそうですから。
 私たち、思いっきり、
心を行き来する思いの一つ一つを御前にさらけ出し、
見ていただき、知っていただいて、
イエスの十字架の死の効果を受け取り、
思いを一つにしていただきたいですね。
天の神、主が願っていて下さるままに。
今日も。
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ヤコブは眠りから覚めて言った。
「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。
これはまさしく神の家である。
そうだ、ここは天の門だ。」
創世記28:17
「これはわたしの愛する子、
わたしの心にかなう者。これに聞け」という声が
雲の中から聞こえた。
弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
イエスは言われた。
「起きなさい。恐れることはない。」
マタイ17:5〜7
        (ローズンゲン日々の聖句3/25;水)


 赤いレンズ豆の煮物、一杯で、兄エサウから長子の権利を買い取り、
母リベカの勧めでとはいえ、
父イサクが老齢で目が見えなくなっていることをいいことに、
兄エサウに偽装して祝福(遺産相続)を自分のものにしたヤコブ。
 殺意を抱く兄エサウを避けて、
母リベカの実家、母の兄ラバンのもとへ逃げるヤコブ。
そのヤコブに天の神、主は夢の中で現れられたのですね。
 天からはしごが地に向かって立てられ、
神の使いたちが上り下りしている。
そして、天の神、主がヤコブのかたわらに立っておられて、
おおせられたのだそうです。
「あなたが横たわっているこの地を、
あなたと「あなたの子孫」とに与える。
あなたの子孫は地のちりのように多くなり、
あなたは、西、東、北、南へと広がり、
地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
見よ。わたしはあなたとともにあり、
あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。
わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、
決してあなたを捨てない。」と。

 そして、その時から2000年近く経って、
「その子孫」として人の世に来られた方イエス。
そのイエスの弟子に天の神、主は声をかけられたのですね。
「これ(イエス)はわたしの愛する子、私の心にかなう者。
これに聞け」と。
 私たちも、そのイエスに代わって来られる方、
聖である霊を呼ばれる方によって心に書き付けて下さる、
御父と心を一つにしておられる、御子イエスの御思いに
聞いていかせていただきたいですね。
今日も。
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主なる神は人を連れて来て、

エデンの園に住まわせ、
人がそこを耕し、守るようにされた。
創世記2:15


管理者に要求されるのは

忠実であることです。Ⅰコリント4:2

        (ローズンゲン日々の聖句3/24;火)


 管理者に必要なことは、単に仕事熱心とか勤勉ということだけでなく、
主人の思い、願いのとおりを実現することが大事なことなのだそうです。

主人の心を知っていること、
そして主人の思いが実現することを願う心が必要だということなのでしょうね。

 主なる神は、
われわれのかたちとして、われわれに似せて」人を造ろうと思われたのだそうです。

そして、彼らが、
海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを
支配するように」と(創世記1:26)。


 主なる神は、人間がすむ場所として、
この自然界、この宇宙を創造されたのだそうですが、
人間が自分でその住まいである自然界を管理することを願われたようですね。

 神のひとりのようになろうとし、善悪を知る者となった人間は(創世記3:22)、
自分の住まいとして任されたこの自然界を
支配することには熱心であり、勤勉でもあったのですけれど、
自分の判断、自分の思いを実現することには熱心だったのでしょうが、
主なる神の御思いをこの地にもたらそうとはしなかったのですね。


 イスラエルの1500年の歴史をとおして、
主なる神が人間にやって欲しい御思いを示しても、
人間は、自分の力ではこれを行うことが出来ないことがはっきりされた今、
主なる神は、御子である方、イエスを十字架刑で処刑することで、
人間のうちに聖である霊と呼ばれる方を派遣する道を開き、
この方によって、ご自身の思いを人間の心に置き、書きしるして、
私たち人間が主である神と一つ思いになって、
主である神の御思いのとおりにこの地を支配していくように、
私たち人間を創造の目的のとおりに回復しようとしていらっしゃるのだそうです。

 私たちもこの事業に参加するよう招いて下さっているのだそうですね。
今日も。


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私たちは先祖と同じく罪を犯し、
不正を行い、主に逆らった。
詩編106:6

イエスの言葉:
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、...

罪人を招くためである。マルコ2:17

      (ローズンゲン日々の聖句3/23;月)


 自分が罪の存在、
天の神、主の創造の目的から
的外れになっている存在であることを知った者を
招いて下さる方なのですね。

「彼は罪人の家の客となった」と非難されても、
その当時、社会からのけ者にされ、
挨拶もしてもらえないような人たちのところに行って
その人の側に御自身を置き、食事を共にされたのだそうです。

 そればかりか、御自分の方から声をかけ、招いて、
弟子にまでして下さった。


 私たち人間の罪も、病も、
御自身の身に一身に引き受け、背負って下さって、
その上で、
「すべて、疲れた人、重荷を背負っている人は、
わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます」と
招いて下さっているのだそうですね。
今日も。
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私の魂はあなたに付き従い、
あなたは右の手で私を支えてくださいます。
詩編63:9

パウロの手紙:
私は自分が信頼している方を知っており、

私にゆだねられているものを、その方が
かの日まで守ることがおできになると確信しています
。Ⅱテモテ1:12

      (ローズンゲン日々の聖句3/18;水)

 支え、守って下さるのですね。
私たち人間の助けである方。
私たちは生きているかぎり、この方をほめたたえ、
御つばさの陰で、喜び歌うのですね。
 その方が私たち一人一人に委ねられたものがあり、
キリスト・イエスがもう一度来られるその日まで
守って下さるのだそうですから、
今日の分を今日、受けていきたいですね。
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主の道は正しい。
神に従う者はその道に歩み、
神に背く者はその道につまずく。
ホセア書14:10

イエスの言葉;
わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者が皆、
天の国に入るわけではない。
わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
マタイ7:21

      (ローズンゲン日々の聖句3/17;火)


 私たちが御心を行うことが出来るのは
聖である霊と呼ばれる方によるようですね。

 天の神、主は、一人の人、アブラハムを選び、
この一人の人から、イスラエルの民族をつくり、
この民族に、モーセをとおして、
人間が生きて行ってほしい御心を文章にして示し、
自分の努力でこれを行うよう、契約を結ばれたのですが、
これを全うできた者は一人もいなかったのだそうです。

 それどころか、聞き従おうとせず、自分の思うままにしていったので、
ついには国を失い、世界中に離散することになったのだそうです。

 今は、御子である方が、人間イエスとして人間の世に来て下さり、
私たち人間が受けるはずであった一人一人の罪の刑罰のすべてを、
ご自身におって下さり、十字架刑で処刑されて下さって、
神から呪われた者として、
天と地の間にかかげられて下さったことにより、
私たちが了承しさえすれば、
このイエスの処刑を私の処刑と見なして下さって、
私たちは処罰済みの者として、
御前に立たせていただけるのだそうです。

「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」のだそうです(新共同訳;ヨエル書3:5、新改訳;2:28)。

 けれども、イエスは言われたのですね。
「主よ、主よ」と呼んでいる者の中にも、
天の国に入れる者と入れない者とがいると。

 私たち、自分の努力で御心を行うことが出来ないので、
イエスが身代わりに十字架刑で処刑されて下さって
私たちの救いが成った者なのですから、
もう一度、自分の力で御心を行いなさいと言うことではないのでしょうね。

 天の神、主は、もう一つの道を
旧約聖書の初めから啓示して下さっているのだそうですね。

その道は、御子イエスの十字架刑での処刑で始まり、
復活し、天に帰られ、御父の右の座に就かれたイエスが派遣して下さる、聖である霊と呼ばれる方が私たち人間一人一人の中に来て下さって、
この方が私たちの心を一新して下さることで完成する道なのだそうです。

 生まれた時からの私という霊から来る思いで生きて来た私たちが、
新しく来て下さった聖である霊と呼ばれる方から来る、
天の父の、私たち一人一人に関わる御思いで生きる者になるのだそうです。

 私たちは、自分の力によるなら絶望的ですが、
この、私たちのうちに働く、聖である霊と呼ばれる方の働きによって
天の父の御心を行う者にしていただけるのだそうですね。
今日も。


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わたしは失われたものを訪ね求め、
追われたものを連れ戻し、
傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。
エゼキエル書34:16

救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れた時に、
神は私たちが行った義の業によってではなく、
憐みによって、私たちを救ってくださいました。
テトス書3/4〜5
           (ローズンゲン日々の聖句3/11;水)

 天の神、主は、救い主として私たち人間に対して下さるのですね。
その慈しみと愛とを、御子イエス・キリストによって
限りなく現していて下さるのだそうです。

 もし、主が、私たち自身の義に目を留められるなら、
私たちは失われた者、追いやられた者でありますのに、
主は、私たちの不義に目を留めないで、
憐みをもって、御子イエスの義をとおして私たちを見て下さるのだそうです。
 御子イエスの十字架の死を、私たち一人一人の死と見なして下さって、
私たちを処刑が終わった者とし、
聖である霊を私たちに内に派遣して、
この方が私たちの心に置いて下さる御思いをわたしの思いとして生きる、
天の神、主と思いを一つにする生き方、
創造の目的にあった生き方に連れ戻して下さるのだそうです。

私たちは、聖である霊と呼ばれる方によって、
天の神、主が、私たち一人一人に対して思っておられる、
その思いを、自分の思いとして生きるようにと招いていただいているのだそうです。
今日も。
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あなたは私の助け、私の逃れ場。
私の神よ、速やかに来てください。
詩編40:18

希望は私たちを欺くことがありません。ロマ書5:5
         (ローズンゲン日々の聖句3/10;火)

 天の神、主が助け手、守って下さる方。
この方が来て顧みて下されば、悩む者、貧しい者も立つことが出来る。
そして、希望は失望に終わることはないのだそうです。
 私たちのうちにあの方、聖である霊と呼ばれる方をお迎えすれば、
その方によって神の愛が注がれるのだそうですから。
私たちがまだ罪人であったとき、
御子であるイエスが私たちのために死んで下さったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられるのですね。
それを、私自身にとっても事実であると実感させて下さるのだそうですから。
今日も。
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主よ、憐れんでください。
あなたに罪を犯した私を癒してください。
詩編41:5
信仰に基づく祈りは、病人を救い、
主がその人を起き上がらせてくださいます。

その人が罪を犯したのであれば、主が赦して下さいます。ヤコブ5:15
      (ローズンゲン日々の聖句3/4;水)
 天の神、主の憐みが頼りなのですね。
罪の赦しも病の癒しも。
私たちに罪を赦していただいたり、
病をいやしていただくことをお願いする
資格や立場があるわけではないのですから。
天の神、主のほうで、
私たち人間を愛し、憐みをもって接して下さり、
御子イエス・キリストの命を贖(あがな)い代として支払って下さって、
私たち人間の罪を赦し、病をいやし、
祝福する道を開いて下さっているのだそうですから。
 今は、イエス・キリストのお名前によって
お願いしていいのだそうです。
今日も。
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地は主の慈しみで満ちている。詩編33:5

良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、
光の源である御父から来るのです。
ヤコブ書1:17

          (ローズンゲン日々の聖句3/3;火)


 主は、私たち人間の住まいとしてこの天地を設計し、
創造されたのだそうです(イザヤ45:18)。
それで、地は私たち人間が幸せに、喜んで生活するための
主の御配慮で満ちているのですね。
それは、設計のとおりに、思ったとおりにできあがり、
非常に良かったたのだそうです(創世記1:31)。

 けれども、人間が
創造主である方と思いを一つにして生きるあり方を嫌い、
神の一人のようになり、自分が自分の主人となって、
自分一人の判断によって善悪を決めていく生き方をするものになり、
創造の目的から外れてしまったことによって、
地も呪われてしまったのだそうです(創世記3:17、22)。

 それでも、被造物自体も、滅びの束縛から解放され、
神の子供たちの栄光の自由の中に入れられる希望があるのだそうです。
それで、被造物も、切実な思いで神の子供たちの現れを
待ち望んでいるのだそうです。

 人間を救うことも、被造物を栄光の自由に入れることも、
良い贈り物、完全な賜物、プレゼントはみな、
上から、天の神、主、父と呼ばれている方から、
その御思いから出て、届けられているのだそうです。
今日も。
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