2015年07月

わたしは彼らを増やす。
数が減ることはない。
わたしが彼らに栄光を与え、侮られることはない。
エレミヤ書30:19

 イエスの言葉:
天の国はからし種に似ている。
人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、
成長するとどの野菜よりも大きくなり、
空の鳥が来て枝に巣を作るほどになる。
マタイ13:31~32

      (ローズンゲン日々の聖句7/22;水)

 天の神、主と呼ばれる方は、私たちの反抗に対して怒りをあらわし、私たちを打たれますが、また、思い直して憐れんで下さる方でもあるのだそうです。

 神に裁かれた者、打たれ、呪われた者とされ、かせいでも報酬がなく、争いがあり平安がなかったけれど、これからは、平安の種がまかれ、ぶどうの木は実を結び、地は産物を出し、天は露を降らせ、幸いを下し、祝福とならせて下さるのだそうです。
 だから、互いに真実を語り、真実と平和の裁きを行い、互いに心の中で悪を計らず、偽りの誓いを愛するな。これらはみな、わたしが憎むからだ、と(ゼカリヤ8:9~17)。

 私たちに代わって十字架刑で処刑され、私たちの背きの罪をご自身に背負って下さった方、墓に葬られ、3日目、日曜日の早朝、墓よりよみがえり、40日に渡って何度も弟子たちに現れ、ご自分が生きておられることを見せたうえで、天の元、居られたところ、父である神と呼ばれる方の右の座に帰られた方。
 そのイエスが私たちひとり一人に派遣して下さる聖である霊と呼ばれる方が、私たちの心に働きかけて、私たちひとり一人の心に天の神、主の御思いを書き記して下さるのだそうです。

 それで、私たちが願うなら、私たちの心にも、この方が憎むことを憎み、この方がしたいと思うことをしたいと思う思いが来るようにしていただけるのだそうです。

 その思いは、まだ何も起こっていないような、まだ小さく、からし種、針の先でちょっとついたあとくらいの、目を凝らさなければ見落としてしまうような小さな出来事であったとしても、成長して、木のように大きくなり、私たちの心いっぱいに満ちる思いになり、私たちの行動の原動力となり、溢れ出して多くの人々に広がっていくのだそうです。

 私たちも、平和と祝福を持って来る者として、用いていただけるのだそうですね。
今日も。


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主は、おのおのに、
その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます。
サムエル記上26:23
 義のために迫害されている人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。
マタイ5:10
      (ローズンゲン日々の聖句7/21;火)
 正しいことをして苦しめられている者を、天の神、主は、そのままにはしておかれないのだそうです。
必ず、その正しさ、忠実さに従って報いて下さるのだそうです。
それで、悪に対して、悪をもって報いるのではなく、善をもって報いていきなさいと勧められているのですね。
 イエスを信じる者だということで、ののしられ、迫害され、ありもしない悪口を浴びせられる時がありますが、天の神、主は、それらをひとつ残らず見ていて下さって報いて下さるのだそうです。
だから、「喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから」とイエスは仰るのだそうです(マタイ5:11~12)。
 私たち、天の神、主と、思いを一つにしていく生き方をしていく者をと願われて造られていながら、その生き方を嫌がり、自らが、神の一人のようになろうとし、自分一人で善悪の判断をしていく生き方を選んだ者の子孫として、その性質を受け継いで生れて来た者(創世記3:22)。
 それで、私たち、天の神、主の招待の言葉も、天の神、主が御子である方を私たちの身代わりに、十字架刑で処刑して用意して下さった義も、
妬むほどに愛し(ヤコブ4:5)、
自分に対する悪口は赦すけれど、この方に対する悪口は赦さないとおっしゃられるほどの大切な方(ルカ12:10)を私たちひとり一人に派遣して、私たちの心に、ご自身の御思いを書き記して下さって、私たちに、ご自身と思いを一つにして生きて欲しいとの懇願も、
気にもかけず、いい加減にあしらってしまう者(マタイ22:1~14)ですが、
そういう者であることを認めて、頭を下げて、この方に呼びかけていけば、答えて下さるのだそうですね。
今日も。
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君侯に依り頼んではならない。
人間に救う力はない。
詩編146:3
 イエスの言葉:
盲人が盲人の道案内をすれば、

二人とも穴に落ちてしまう。
マタイ15:14
      (ローズンゲン日々の聖句7/15;水)
 君主たちに頼ることは、頼りがいがあるかのように見えますが、実は頼りにならないものなのだそうです。人間に人間を救う力はないのだそうですから。
人間は自分の知恵を誇りますが、人間が持っている情報量はほんの限られたものであって、その知識は部分的な知識に過ぎないのだそうです。
その人間の知恵に頼ることは、目の見えない者が、目の見えない者の手引きをしているような状態なのだそうです。
 詩編の作者はさらに続けて言っています。
霊が出て行くと、人はおのれの土に帰り、
その日のうちに彼のもろもろの計画は滅び失せる。
幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、
その神、主に望みを置く者は。
主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。
とこしえまでも真実を守り、
しいたげられる者のためにさばきを行い、
飢えた者にパンを与える方。
主は捕らわれ人を解放される。
主は盲人の目をあけ、
主はかがんでいる者を起される。
主は正しい者を愛し、
主は在留異国人を守り、
みなしごとやもめをささえられる。
しかし主は悪者の道を曲げられる。
主は、とこしえまでも統べ治められる。
シオンよ。あなたの神は代々にいます。
ハレルヤ。
と。
 天の神、主に頼るのは人に頼るよりもいいのですね。
自分自身に頼ることも含めて。
フィリピの牢に捕らわれたパウロとシラスも、天の神、主により頼み、神に祈りつつ賛美の歌を歌っていたのだそうです(使徒16:23~34)。
人に頼っていないので、施しをするときにも、人に見せるため、人にほめられるためではなく、隠れたところで見ておられる方と心を合わせていくのだそうです(マタイ1~4)。
聖である霊と呼ばれる方によって、御思いを心に置いていただいた者は。
今日も。
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行くがよい。
主がお前と共におられるように。
サムエル記上17:37
 あらゆる人知を超える神の平和が、
あなたがたの心と考えを

キリスト・イエスによって守るでしょう。
フィリピ書4:7
      (ローズンゲン日々の聖句7/14;火)
 出て行くとき、一歩踏み出す時、共にいて下さる方。
近くいて下さる方、一緒に行って下さる方。
そばに、よりもさらに近く、内に居て下さり、
平和を起こして下さる方。
 はっきりと知って欲しいのだそうです。
2000年ほど前、エルサレムの門の外で十字架刑で処刑されたあのイエスこそ、
神が、主ともキリスト(救い主)ともされた方であると。
 この方に近く居ていただくには、心の向きを天の神、主のほうに向き変えて、
それぞれ罪を赦していただくために、
イエス・キリストの名によってバブテスマ(洗礼)を受けるといいのだそうです。
 そうすれば、賜物(神からのプレゼント)として、聖である霊と呼ばれる方が来て下さるのだそうです(使徒2:36~38)。
私たちといつも、いつまでも、近く、近くいて下さるもう一人の助け主として(ヨハネ14:16)。
 その方が、私たちのうちに居て下さって、私たちの心の思いに天の神、主の、私たち一人一人に、その時その時に思っていらっしゃる御思いを置いて下さるので(エゼキエル36:25~27)、私たちの心にもこの方から来る御思い、「目には目を」に代えて「右の頬を打つ者には、左の頬も向ける」、あるいは、「私たちを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も与える」、「1キロメートル行けと強いるような者とは、2キロメートル一緒に行ってあげる」ような、今までの私たちのうちからは出て来るはずもない思い、天の神、主の御思いが来るようになるのだそうです。
 天の神、主は、しようと思っておられる御業を、私たち一人一人と心を一つにし、一緒に、私たち一人一人をとおして、していきたいと思って下さっているのだそうですね(ヨハネ14:12)。
私たちの周りに平和を起そうと。
今日も。
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衣を裂くのではなく、
お前たちの心を引き裂け。
あなたたちの神、主に立ち帰れ。
ヨエル書2:13

 徴税人は遠くに立って、
目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。
「神様、罪人の私を憐れんでください。」
ルカ18:13
        (ローズンゲン日々の聖句7/13;月)
 心を裂く。
それは、この徴税人の心の姿のようなことなのでしょか。

 徴税人。それは、敵国、ローマ帝国のために税金を取り立てる人たちで、
ユダヤの人たちにとっては売国奴と思われていた人たちだそうです。
人々から嫌われてもそれをやるからにはそれなりの役得があったわけで、
ローマの権威を振り回して、ローマに納めるよりも多くの税金を取り立てて残りを自分のものとし、
自分のふところを肥やしていたので、よけいに嫌われ、
遊女や徴税人のやからと、神の律法の外にある者の代表のように扱われていたようです。
 イエスの話しでは、このような徴税人と、もう一人は、まじめで正しい生活が出来るよう、律法を忠実に守ろうと努力し、週に2度、断食をし、すべて手に入った物の10分の1を宮にささげていたパリサイ人の二人が祈るために神殿に行ったのだそうです。
 パリサイ人は、「神よ、私はほかの人のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、
ことに、この徴税人のようではないことを、感謝します」と祈っていたのだそうです。
 もう一人の徴税人は、遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩いて、
「神さま。こんな罪人の私を憐れんでください」って祈っていたのだそうです。
 イエスが言うには、神に義と認められて帰ったのはこの徴税人で、
努力家のパリサイ人のほうではなかったというのですね。
人間の努力では、表面的にはまじめに、立派にやっていけるけれど、心の中の思いは汚いものでいっぱいで、神様は、その心の中を見ておられるということでしょうか。

 天の神、主は、そのような私たちの心の思いを全部御自身に受け取って下さって、
御子である方を人間イエスとして人の世に派遣し、
このイエスを処罰することで私たちの悪のすべてを処分済みとし、
そのうえで、もう一人の方、聖である霊と呼ばれる方を私たちの内に派遣して、
私たち一人ひとりの心に、私たち一人ひとりに関わる御自身の御思いを置いて下さって、
私たちの心の思いの出どころである霊を切り替え、
私たちを内側から、心のほうから変えて下さろうとしていらっしゃるのだそうですね。

 このイエスによる提案を受け入れたのは、自分の努力に自信のあるあのパリサイ人ではなく、
頭を下げ、胸を打ちたたいて悲しんでいた、自分の駄目さ加減を感じていたこの徴税人のほうだったということのようです。
 私たちも、自分の心のありのまままの実体を認めて、頭を下げて
天の神、主からの、このイエスによる提案を受け取って行きたいですね。
聖である霊と呼ばれる方によって、心に来る思いに目を向けて。
今日も。
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主のなさった大いなる御業をすべて、
あなたたちは自分の目で見てきた。
申命記11:7
 私たちが見、また聞いたことを、
あなたがたにも伝えるのは、

あなたがたも
私たちとの交わりを持つようになるためです
。Ⅰヨハネ1:3
         (ローズンゲン日々の聖句7/8;水)
 「交わり」という言葉には、「共通部分」という意味もあるようです
「一つのものを共に持つこと」でもあるのでしょうか。
 モーセは、イスラエルの民の共通部分として、
天の神、主が、イスラエルをエジプトから連れ出される時
行われた大いなる御業、
また、エジプトを出てからの荒野での40年の旅路において
なされた大いなる御業を目撃した
その共通体験を上げているようです。
 そして、それから1500年後のイエスの使徒ヨハネは、
私たちの共通部分として、
イエスという人物をとおして私たち人間に現された
天の神、主の御思いを上げているようです。
 それは、天地が創造される前からあったものであり、
ヨハネたち、3年半をイエスとともに過ごした者たちが
自分の耳で聞いたもの、
じっと見、手で触ったもの、なのだそうです。
つまり、人間の思索の産物ではなく、
事実として体験したものだということのようですね。
 その体験とは、
いのちのことば、永遠のいのちと言われているものであり、
イエスという人物をとおして語りかけられている、
天の神、主の御思いであり、
その御思いを、私たちの、
またさらには、天の神、主、
御父と呼ばれる方、御子である神と呼ばれる方と
私たち一人一人との共通部分として
体験して知るということのようです。
 イエスの使徒、ヨハネは、私たちとの
そのような共通部分になるようにと、
イエスに関わる喜ばしい知らせを証言し、伝えると
言っているようですね(Ⅰヨハネ1:1~4)。
 「主は生きておられる。」
 主は、生きておられ、私たちに対して、
私たちをとおして、働いておられる方、
私たちも、聞き、じっと見、また手で触れられる方、
のようですね。
今日も。
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夜も昼もこの神殿に、
この所に御目を注いでください。
ここはあなたが、「わたしの名をとどめる」と
仰せになった所です。
列王記上8:29
 キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。
もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、
私たちこそ神の家なのです。
ヘブル書3:6
      (ローズンゲン日々の聖句7/7;火)
 神殿、それは天の神、主が住まわれるところ。
しかし、壮麗をきわめたソロモンの神殿においてさえ、
ソロモン王自身が言っているように、
「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。
実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。
まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです」、
なのですね。
 それなのに、天の神、主は、
私たち人間の一人一人をイエスの十字架刑での処刑において
聖いものとみなし、
一人一人に、
もう一人の方、聖である霊と呼ばれる方を派遣して、
私たち一人一人の内に聖である霊と呼ばれる方が
お住みになるようにして下さるのだそうです。
私たち一人一人を、聖である霊と呼ばれる方の神殿とされる
というのですね。
 私たち、人間は、天の神、主、
父である神と呼ばれる方、御子である神と呼ばれる方、
聖である霊と呼ばれる方が、
それぞれ、全知であり、全能であり、
永遠・不変の方でありながら、
愛と尊敬のゆえに、自発的に、自分から進んで、
心を明かし合い、思いを一つにし合い、
行動を一つにしておられる、
その一つに加わる者をと望まれて
創造されたものなのだそうですが(創世記1:26)、
最初の人アダムは、
天の神、主と一つになっていることでは満足せず、
神のようになり、善悪を知る者になろうとし(創世記3:5)、
神の一人のように善悪を知る者となり(創世記3:22)、
天の神、主に対抗して、自分の善悪の判断をおし進め、
自分が一番上に立ち、自分一人がすべての良いものを独占し、
自分の判断のとおりに他を従わせようとする者になったのだそうです。
それで、自分よりも優れた者に対しては、
これを妬み、これを憎み、殺す者となったようです(創世記4:1~8、23~24)。
 そのように、創造の目的から大きく外れてしまった私たち人間ですから、
ちょうど、陶器製作者が、思ったとおりに出来なかった陶器を
投げ捨て打ち砕いて、廃棄処分にするように、
私たちも廃棄処分になり、ゲヘナ(ベンヒンノムの谷、エルサレムから出るごみの焼却場)で、生ごみとして焼却処分されても当然の者なのに、
天の神、主は、なお、私たち人間を惜しんで、
私たちがご自分と思いを一つにする者になるようにと、
ご自身の側で一方的に、道を開いて下さったのだそうです。
 まず、聖である方が私たちに触れても、
私たちが、この外れのゆえに滅びてしまわないようにと、
御子である神と呼ばれる方を人間イエスとして人の世に生まれさせ、
この方がおよそ33歳の頃、この方を十字架刑で処刑して、
私たち人間のそむきの罪を処罰したものとの手続きを済ませて下さり、
聖である霊と呼ばれる方が触れられても
私たちが滅びてしまわないようにして下さった上で、
約束の言葉のとおりに、
聖である霊と呼ばれる方を派遣して下さって、
私たち人間のひとり一人の内に住まわせて下さり、
この方によって、ご自身の思いを私たち一人一人の心に
書き記して下さって、
私たちがご自身と思いを一つにして生きる者にとして下さるのだそうです(エレミヤ31:33、エゼキエル36:26~27、ヨハネ17:21~23)。
 聖である霊と呼ばれる方が住まわれる神殿、
神の宮となった私たち一人一人に、
天の神、主は、夜も昼も目を注ぎ、見守っていて下さり、
私たちの呼びかける声を聞いて下さり、
導いて下さるのだそうですね。
今日も。
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 わたしの言葉は火に似ていないか。
岩を打ち砕く槌のようではないか、
と主は言われる。
エレミヤ23:29
 イエスの言葉:
わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。
ルカ12:49
            (ローズンゲン日々の聖句7/1;水)
 天の神、主が語られる言葉は火のよう、なのだそうですね。
もみ殻を焼き尽くしてしまう火のよう。
 また、岩を打ち砕く槌のよう。

 語られたとおりの事実が具体的に起こる言葉なのだそうです。
空しい、事実が何も起こらない、役に立たない、
偽預言者が語るような言葉ではなく(エレミヤ23:25~32)。
 そして、イエスは、その、神の言葉として
この世に来られたのだそうです。

 イエスが受けられたバブテスマ、
人類の背きの罪のすべてをご自分が背負って、
反逆者として十字架刑によって処刑されるという事実をとおして語られた言葉(神の御意志の表現)によって、
分裂が起こるのだそうです(ルカ12:49~53)。

 天の神、主は、このイエスの十字架刑での死という事実によって、
私たち人間に、心の向きを神のほうへ向き直り、神のもとに帰って来て、
神の家族となり、
神と思いを一つにしながら生きる者になって欲しいと語っておられるのだそうですが、

 このイエスの死によって語っておられる神の御意志に対して、
これを心に留め、信頼し、受け入れる者と、
これを無視し、あるいは拒否し対抗する者とに。

 十字架に架かって私たち人類の罪の罰のすべてを身に負い、
復活し、天のもと、居られた位に帰られた
イエスが派遣して下さる
聖である霊と呼ばれる方は力強く働いておられるのだそうですね。
焼き尽くす火のように、岩を打ち砕く槌のように。
神の家族としていただいた者に、その事実を与えようと。
今日も。
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