2016年06月

あなたは食べて満足し、

  あなたの神、主をたたえなさい。申命記810 


 神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。

恵みをくださり、
天からの雨を降らせて実りの季節を与え、
食物を施して、

あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。使徒1417


      (ローズンゲン日々の聖句6/29;水)


 過ぎ去った時代には、天の神、主は、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられたのだそうです。

 それでも、自分のことをあかししないでおられたのではなく、恵みをもって、天からの雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、人々の心を満たしてくださっていたのだそうです。


 私たち人間は、この方を無視し、自分の力でこれを得たのだと思い、自分を誇りたい者のようです。

 

 けれども、今は、今までのそのようなむなしい生き方を捨て、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神を認め、この方に立ち返り、この良い地を賜った天の神、主に感謝し、ほめたたえる者になるよう、招いていてくださるのだそうです。


 この方は、私たちひとりひとりを喜びで満たそうと計画していてくださるのだそうですから。

今日も。

あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、

  平和のうちに導かれて行く。イザヤ書5512


 わたしは、平和をあなたがたに残し、
わたしの平和を与える。
 わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。
心を騒がせるな。

おびえるな。ヨハネ1427


      (ローズンゲン日々の聖句6/28;火)


 世が与える平安、それは平穏無事による平安なのでしょうね。

けれども、イエスが「わたしの平安」と呼ばれる、イエスが与えてくださる平安は、どんな状況の中にあっても揺るがない平安なのだそうです。


 心騒がせる、恐れに満たされる、おびえるしかない状況の中にあって、なお、心の深みにある平安なのだそうです。


 これは、最後の晩餐と呼ばれる、イエスが弟子たちと共に過ごす最後の夕食の席、イエスは、今夜、捕らえられ、明日には十字架刑での処刑に向かっていかれる、その最後の夕食の席で弟子たちに語られた言葉なのだそうです。


 師と仰ぎ、この方こそ王として立ち、イスラエルのダビデの王国を再建してくださる方、その時、自分たちもそれぞれ、ふさわしい立場を与えてもらえると考えていた男の弟子たち。

それなのに、そのイエスが捕らえられ、処刑されてしまう。


 その、驚天動地の中にあって、なお、心の奥底にある平安、それを与えるとイエスは言われるのですね。



 さらに、イエスは言われます。わたしは去っていくけれど、わたしが父のもとに帰ったら、わたしは父にお願いします。

そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです(ヨハネ1416)。


 助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます(ヨハネ1426)と。


 この方、「聖である霊」と呼ばれる方が来てくださるとき、受け入れる者は、どのような心騒ぎ、おびえる状況の中にあっても、この方が一緒にいてくださる平安、

この方によって、「父である神」と呼ばれる方が自分に対して思っておられる御思いが心に来て、「父である神」と一つ思いになっている平安がある者にしていただけるのだそうです。


 それで、この方と共に歩む者は、喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれていくのだそうです。

今日も。

今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。
 ただ、あなたの神、主を畏れて
  そのすべての道に従って歩み、
  主を愛し、
  心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、
   あなたが幸いを得ることではないか。申命記1012


 神の言葉を守るなら、
まことにその人の内には神の愛が実現しています。
これによって、
私たちが神の内にいることが分かります。Ⅰヨハネ25


      (ローズンゲン日々の聖句6/22;水)


 天の神、主は、恋い慕ってくださっているようですね。
私たちのことも(申命記1015)。
愛し合い、心を一つにし、思いを同じにする間柄になりたいと。


 だから、心の包皮を切り捨て、うなじのこわい、自分の理性の善悪の判断を優先させる「生まれた時からの霊」という自分自身をイエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて処刑されてしまっているものと認めて(計算して、帳簿につけて)、
三日目に墓より復活し、40日にわたって何度も弟子たちに現れて、ご自身が確かに生きていることを数々の確かな証拠で証明したうえで、弟子たちの見ている前で雲に迎えられ、天の「父である神」の右の座に帰られたイエスが、派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方、
この方を受け入れ、この方の働きによって、「父である神」と呼ばれる方が私たちひとりひとりに思っていてくださる御思いを、心に書き付けていただき、同じ思い、一つ心になりながら歩む。
その幸いを得る道を歩んでほしいと願っていてくださるのだそうですね。


 「聖である霊」と呼ばれる方の、「父である神」、「御子である神」に対する御愛が受け入れる者に来るとき、私たちにも、この方の天の神、主を愛する心が来て、愛する方と思いを一つにしたい、心を一つにしたい、御思いの中にいたいと願うようになり、お言葉のとおりに、御思いのとおりに生きたいと願うようになるのだそうです。


 これは、願っていくなら、求めていくなら、必ず実現する生き方なのだそうです。
うらみのある者を赦す心にも(マルコ112026)。
今日も。

あなたは、今日、
 上の天においても下の地においても主こそが神であり、

  ほかに神のいないことをわきまえなさい。申命記439


 神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。

「我らは神の中に生き、動き、存在する」のです。使徒172728


      (ローズンゲン日々の聖句6/21;火)


 天の神、主は預言者モーセを通して言われます。

「さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。

神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。

あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。

あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力をもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。

あなたにこのことが示されたのは、(「わたしはあるという者)と名乗られる方)だけが神であって、ほかには神がないことを、あなたが知るためであった。

 

 主はあなたを訓練するため、天からの御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中からあなたは、みことばを聞いた。主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んでおられたので、主ご自身が大いなる力をもって、あなたをエジプトから連れ出された。


 それはあなたよりも大きく、強い国々を、あなたの前から追い払い、あなたを彼らの地に入らせ、これを相続地としてあなたに与えるためであった。今日のとおりである。


 きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。

あなたも、あなたの後の子孫も、幸せになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである」(申命記43240)と。



 私たち人間を含むこの世界のすべてのものは、この方、天の神、主と呼ばれ、「わたしはあるという者」と名乗られる方の御思いによって創造され、御思いによって支えられ、保たれて存在しているものなのだそうです。



 使徒パウロがアレオパゴスで、アテネの人たちに語ったように、

「神は、一人の人(アダム)からすべての国の人々を造り出して、地の前面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。

確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられない」(使徒172627)のだそうですから。



 それで、もし、私たちが受け取りさえするなら、イエスが、私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださり、三日目に墓より復活し、天の「父である神」の右の座に帰られて派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方。

この方が、受け入れる者の心に、「父である神」の私たちひとりひとりに対する御思いを置いてくださるので、受け入れる者は、互いの罪に対する弱さ、重荷を担い合い、自分の罪を悲しみ、帰ってくる者を、私たちは失敗を責め、なじりたい者ですが、「父である神」の御思いのとおりに赦し合い、受け入れ合って進んでいくのだそうです(Ⅱコリント2511)。

今日も。

主が私に授けること、

 私はそれだけを忠実に告げるのです。民数記2312


 私たちは、

見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。使徒4:20


      (ローズンゲン日々の聖句6/20;水)


 本当の愛とは、相手と一つになりたい、相手が思っていることを自分も思い、相手が話すとおりに自分も話したいと願うもののようです。


 愛において、「父である神」と完全に一つになっていらっしゃるイエスは、ご自身、全知、全能、永遠不変の方でありながら、「父である神」を愛し、尊敬し、「自分からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している」(ヨハネ828)方なのそうです。


 そして、天の神、主に立てられた預言者も、自分の考えで差し引きもせず、付け加えもせず、示されたとおりをそのままに語るのですね。


 イエスの弟子たち、イエスが十字架刑で処刑され、自分たちも捕まえられるのではないかと恐れて家の奥に隠れていた弟子たちに、復活されたイエスが40日にわたって何度も現れ、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを示されたのだそうです。


 そして、「エルサレムから離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」(使徒145)と命じられ、オリーブ山から、弟子たちの見ている前で、上げられ、雲に包まれて、見えなくなられたのだそうです。


 それから10日後の五旬節(ペンテコステ)の祭り、旧約律法が与えられたその記念日に、約束の「聖である霊」と呼ばれる方が弟子たち、一人一人に来られて、弟子たちの心に「父である神」の御思いを置かれたのだそうです(エレミヤ313134、エゼキエル362527)。


 すると、特別に聖書の勉強もしたことがない弟子たちが、大胆に、聖書全体から、イエスが復活されたことを語り始めたのだそうです。

イエスを十字架にかけた祭司長、民の指導者、長老、律法学者たちの「イエスの名によって語ったり、教えたりしてはならない」との脅かしにも屈せずに。


 「聖である霊」と呼ばれる方が来てくださり、この方の「父である神」、「御子イエス」に対する愛を、そして「父である神」が私たち一人一人に思っていてくださる御思いを受け入れる者の心に置いてくださるとき、私たちも見たこと、聞いたことを話したいものになるのだそうです。

預言者ミカが記した、

「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。

あなたは、咎を赦し、

ご自分のものである残りの者のために、

そむきの罪を見過ごされ

怒りをいつまでも持ち続けず、

いつくしみを喜ばれるからです。

もう一度、私たちをあわれみ、

私たちの咎を踏みつけて、

すべての罪を海の深みに投げ入れてください。

昔、私たちの先祖に誓われたように、

真実をヤコブに、

いつくしみをアブラハムに与えてください」(ミカ71820)、

この神を。

今日も。

あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ。
   主は計らってくださる。詩編375

 キリストのお陰で、
今の恵みに信仰によって導き入れられ、
神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。ロマ52


      (ローズンゲン日々の聖句6/14;火)


 悪を行う者に腹を立てないで、
不正を行う者に対して妬みを起こさないで、
主をおのれの喜びとし、
主に信頼して善を行っていくなら、
自分の道を主にゆだね、主に信頼していくなら、
主は、ご自身の義を、イエス・キリストの義を、受け入れる者に着せて光のように輝かせてくださるのだそうです(詩編3716)。


 主は、私たち一人一人にご計画を持っていてくださり、幸せにしようと思っていてくださるのだそうですから。
それで、天の神、主は、すべてのことを働かせて益としてくださるのだそうです(ロマ828)。



 天の神、主は、御子である方を、人間イエスとして人の世に生まれさせ、この方がおよそ33歳のころ、私たちすべての人間の身代わりとして立てて、十字架刑で処刑し、私たち、すべての人間の、すべての背きの罪をこのイエスによって処刑済みとしてくださったのだそうです。


 そのうえで、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を、受け入れる者に派遣し、この方の働きによって、ご自身が私たち一人一人に思っていらっしゃる御思いを、受け入れる者の心に置いてくださって、受け入れる者がご自身と同じ思いを持ち、一つ心になるようにと願っていてくださるのだそうです。


 このことを、ご自身の側で、一方的に用意し、恵みのプレゼントとして差し出し、一人残らずが、これを受取ってほしいと待っていてくださるのだそうです。


 私たちをも、ご自身と一つになっている者としての栄光で輝く者にしようと計画していてくださるのだそうですから。
今日も。

主は
  うずくまっている人を起こされる。詩編146:8


 イエスの叫び:
渇いている人はだれでも、
  わたしのところに来て飲みなさい。ヨハネ737


      (ローズンゲン日々の聖句6/8;水)


 詩人は謳います。
「君主たちにたよってはならない。
救いのない人間の子に。
霊が出ていくと、人はおのれの土に帰り、
その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。
幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、
その神、主に望みを置く者は。
主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。
とこしえまでも真実を守り、
しいたげられた者のためにさばきを行い、
飢えた者にパンを与える方。
主は捕らわれ人を解放される。


主は盲人の目をあけ、
主はかがんでいる者を起こされる。
主は正しい者を愛し、
主は在留異国人を守り、
みなしごとやもめをささえられる。
しかし主は悪者の道を曲げられる。
主は、とこしえまでも統べ治められる。
シオンよ。あなたの神は代々にいます。
ハレルヤ」(詩編146310新改訳)と。


 うずくまっている人、渇いている人がイエスに求めるなら、
イエスは、渇くことのない、生ける水を与えてくれて、
その水は、その人のうちで泉となり、
永遠の命への水が湧き出るようになるのだそうです(ヨハネ4:5~18)。


 イエスは言われました。
「わたしを信じる者は、
聖書が言っているとおりに、
その人の心の奥底(腹)から、
生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ738)。
「聖である霊」と呼ばれる方の働きが大きな川の流れのように流れ出る、と。
今日も。

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