2017年09月

町に災いが起こったなら、
それは主がなされたことではないか。
アモス書36

 私たちは、生きるとすれば主のために生き、
死ぬとすれば主のために死ぬのです。
従って、生きるにしても、死ぬにしても、
私たちは主のものです。
ロマ書148

 創世記
166b14
 ルカ1416(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句9/30;土)

 預言者アモスは言うのですね。
イスラエルの子らよ。
主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方があなたがた、
すなわちわたしがエジプトの地から連れ上ったすべての氏族について言った、このことばを聞け。

 わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。
それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。
  ~~
まことに、神である主は、そのはかりごとをご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは何事もなさらない。
獅子がほえる。だれが恐れないだろう。
神である主が語られる。
だれが預言しないでいられよう(アモス318新改訳)。


 使徒パウロは言います。
(イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、
〔生まれた時からの私〕である霊を処刑されたもの、死んだものとしていただき、
イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いを自分の思いとして、
〔父である神〕と思いを一つにして生きるようになった)私たちの中で、
だれひとりとして、自分のために生きている者はなく、
また自分のために死ぬ者もありません。
もし生きるなら、主のために生き、
もし死ぬなら、主のために死ぬのです。
ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです(ロマ1478)と。


 今から4000年ほど前のこと、アブラハムの妻サライの女奴隷であったエジプト人ハガルは、
サライに子どもが生まれないため、女主人サライによってアブラハムの妻とされたのだそうです。
そして、アブラハムの子を宿したので、子を産まない女主人を見下げるようになったため、
サライからいじめられ、サライのもとから逃げ出したのだそうです。
 主の使いが、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、
「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねたのだそうです。
そして言ったのだそうです。
「あなたの女主人のもとに帰りなさい。
そして、彼女のもとで身を低くしなさい。
あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。
見よ。あなたはみごもって、男の子を産もうとしている。
その子をイシュマエル(神は聞かれる)と名づけなさい。
主があなたの苦しみを聞き入れられたから。
彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。
彼はすべての兄弟に敵対して住もう」(創世記16112)と。

 このイシュマエルの子孫がアラブ人であり、
マホメットも自分をイシュマエルの子孫としていて、
エジプトのサダト大統領は、イスラエルとの和解交渉の時、
「アブラハムの子イサクの子孫であるあなたがたと、
アブラハムの子イシュマエルの子孫である私たちが」と、格調高い演説をしたのだそうです。


 天の神、主は、ソドムとゴモラをさばくため、出て行かれるとき、考えられたのだそうです。
「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」(創世記1817)と。

 天の神、主は、私たちにも、ご自身がこれからしようと思われることを、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、私たちの心にその思いを置いてくださるのだそうです。
私たちが、神のものとして、
ご自身を愛する愛によって、
自由意思で、自発的に、自分から進んで、一つ心になるようにと願って。
今日も。

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あなたの神、主が導かれた
この40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。
こうして主はあなたを苦しめて試し、
あなたの心にあること、
すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。
申命記82

 愚かな者としてではなく、
賢い者として、
細かく気を配って歩みなさい。
時をよく用いなさい。
エフェソ書51516

 ルカ
101720
 黙示録12712a12b
 ルカ
133135(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/29;金)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
エジプトを出たイスラエルの民が、すぐに約束の地に入るようにはされないで
(それは、イスラエルの民の不従順の故ではありましたが(民数記
13章、14章)、
40年、荒野で生活するようにされました。

それは、苦しい出来事、困難な出来事に出会うことによって、
民の心にあることを表そうとされたようですね。

あのホレブの山、シナイ山で、民は、確かに、
「私たちは
が仰せられたことを、みな行い、聞き従います」(出エジプト198243、7)と答え、
神の民となる契約を結んだのです。

しかし、神と心を一つにして生きる場から離れ、
「神のひとりのようになろう」として、「善悪を知る者」になった(創世記
3522)人間の本心は、
「聞き従います」とのことばのとおりではなかったようですね。

天の神、主は、この荒野の40年の旅を通して、
そして、その後の
800年ほどのイスラエルの民の歴史の中で、
人間は、神と心を一つにして生きることを求めないで、
自分の理性の善悪の判断で、自分の判断のままに生きる者であることを明らかにされたようです。

そして、イスラエルの民において、その、神に対する反逆が極まり、
これ以上放置するならば、民は滅びるしかないところまで来て、
民を懲らしめ、立ち返らせるために、バビロン帝国を用いてイスラエルを打たれる、
そのとき、天の神、主は、新しい契約の約束を与えられたのだそうです。

「見よ。その日が来る。
  ――主の御告げ――
その日、わたしはイスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。
わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。
――主の御告げ――
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルと家と結ぶ契約はこうだ。
――主の御告げ――
わたしは、
わたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ
313133)と。

さらにまた、「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、
あなたがたはすべての汚れからきよめられる。
わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
あなたがたに新しい心を与え、
あなたがたのうちに新しい霊を授ける。
わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、
あなたがたに肉の心を与える。
わたしの霊をあなたがたのうちに授け、
わたしのおきてに従って歩ませ、
わたしの定めを守り行わせる。
あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、
あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」(エゼキエル
362528)と。

そして、このご計画の時が満ちて、
〔御子〕である方が、人となって、人の世に来られ、
およそ33歳の頃、エルサレム城外で十字架刑での処刑を受けられ、
墓に葬られ、三日目の日曜日の朝、死者の中から新しいからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
オリーブ山で、弟子たちの見守る中、天の〔父である神」の右の座に帰られたのだそうです。
「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」と言い残して(使徒1211)。

そして、その10日後のペンテコステ(五旬節)、
律法授与の記念日、出エジプトの時の契約締結の記念日に、
待ち望んでいた120人ばかりの弟子たちのところに、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られて、
弟子たちは、この方が心に置いてくださる御思いのままに話し始めた(使徒214)のだそうです。

エルサレムで始まったこの出来事は、ユダヤ、サマリヤの全土、さらに地の果てにまで広がり、
そのときからおよそ
2000年を経た今の、東の果て日本の私たちにまで届いているのだそうです。

それで、今の時をよく用い、
詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって心から歌い、賛美しながら、
この方、〔聖である霊〕と呼ばれる方に満たされ、
心に〔父である神〕の自分に関わる御思いを置いていただいて、
自分の善し悪しの判断ではなく、
御思いによって生きるように(エペソ51519新改訳)と勧められているようですね。

日夜、私たちを神に訴える告発者サタンとその手下の悪霊どもさえも従わせる権威の中で(ルカ101720、黙示録12712)。
今日も。
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かわいい息子を懲らしめる父のように、
主は愛する者を懲らしめる。
箴言312

 私達は、あなたがたからも他の人達からも
人間の誉れを求めず、
キリストの使徒としての権威も主張しませんでした。
私達は、母親がその子供を大事に育てる様に、
あなたがたを愛する者となったからです。
Ⅰテサロニケ268

 ルカ
103842
 ルカ132230(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/28;木)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、私たち、人間を、
息子をかわいいと思う父親のように、
母親が子どもを愛するように、かわいいと思い、愛し、大事に思っていてくださる方のようですね。

 それで、私たちに必要なときには私たちを懲らしめ、訓練もし、
また、私たちに、ご自身のすべてを与え切って、私たちを育ててくださるのだそうですね。

 イエスがベタニヤ村へ入られたとき、
マルタという女性が、喜んでイエスの一行を家に迎え入れたのだそうです。

 彼女はいろいろもてなしのことで気が落ち着かず、イエスに言ったのだそうです。
「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。
私の手伝いをするように、妹におっしゃって下さい」と。

 妹のマリヤは、イエスの足もとにすわって、イエスの言葉に聞き入っていたのだそうですから。
イエスは、答えて言われました。
「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
しかし、どうしても必要なことはわずかです。
いや、一つだけです。
マリヤはその良いほうを選んだのです。
彼女からそれを取り上げてはいけません」(ルカ
103842新改訳)と。


イエスが、エルサレムへの旅を続けておられると、
「主よ。救われる者は少ないのですか」と言う人があったのだそうです。
イエスは、人々に言われました。
「努力して狭い門から入りなさい。
なぜなら、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。
家の主人が、立ち上がって、戸を閉めてからでは、外に立って、
『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、
もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。

すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。
『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。」
だが、主人はこう言うでしょう。
『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』
 ~~
 人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓につきます。
いいですか。今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるからです」(ルカ132230新改訳)と。


よく聞いて、天の神、主が何を思っていらっしゃるのかを知り、
思いを一つにすることを求めてほしいとイエスは仰っているのでしょうか。
自分の理性の判断での「善し」とするところにしたがってする、もてなしや奉仕、敬虔、信仰の業は、もしかすると、土台がちがっているかもしれないのですね。
それを、イエスは、「不正」だと仰る。


「神のひとりのようになろう」とし、「善悪を知る者になっている」(創世記3522)私たち自身の〔生まれた時からの私〕という霊を、
いよいよ立派にし、強くし、信仰深くしていく方向ではなく、
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、処刑されたもの、死んだものと認め、計算して、
イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いに聞いて、ついて行ってほしいのだそうですから(ガラテヤ5:24~25)。
愛され、愛されて。
今日も。
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すべて神に業は永遠に不変であり、
付け加えることも除くことも許されない。
コヘレト314

 聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、
この方が開けると、だれも閉じることなく、
閉じると、だれも開けることがない。
黙示録37

 コヘレト
4:(47812
 ルカ131821(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/27;水)

 伝道者(コヘレト)の書(新改訳)47節~12節には次のように記されています。

「私は再び、日の下に空しさのあるのを見た。
ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。
それでも彼のいっさいの労苦には終わりがなく、彼の目は富を求めて飽きることがない。
そして、「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」とも言わない。
これもまた、むなしく、つらい仕事だ。

ふたりはひとりよりもまさっている。
ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。
どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。
倒れても起こす者がいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。
また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。
もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。
三つ撚りの糸は簡単には切れない。」


天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が決められ、実行された御業は、変えられることがないのですね。

〔父である神〕の御心に従って、〔御子である神〕が、「女の子孫」として(創世記315)、
ダビデの子孫である処女マリヤの胎を通して人の世に来られ、
すべての人の、すべての「的外れ」の責任をご自身の身に負って十字架刑での処刑を受けられ、
すべての人を処刑済み、死んだ者としてくださったことは。

そして、このイエスの死を自分の死としていただいた者に、
新しい霊として、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来て下さることは。

この方が受け入れる者の心に、
〔父である神〕が、私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださり、
受け入れる者を〔父である神〕と同じ思いを思う者としてくださり、
一つ心になって、
イエスがそうであったように、
〔父である神〕がしようと思われることをしていく、
〔父である神〕と行動を一つにする者にしてくださることは。


天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、最初に、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と仰られたのだそうですから(創世記126)。

そして、十字架に架かられる前夜の、弟子たちとの最後の晩餐の席で、イエスは言われたのだそうですから。
「父よ。あなたが私におられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな(わたしたちと)一つとなるためです。
また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。私たちが一つであるように、彼らも(わたしたちと)一つであるためです」(ヨハネ172122)と。
だれも変えることができない、この方が閉じられるまでは、だれも閉じることができないこと、として。


 そして、この、私たちが天の神、主と心を一つにして生きるようになる関係は、
どんどん大きくなり、全体に広がっているのですね。
野菜のうちで最も小さい種、針の先でちょっと突いたくらいの大きさのからし種が、成長すると木になり、空の鳥が枝に巣を作るほどになるように。
また、パン種が、粉全体を膨らませるように(ルカ13:18~21)。

 私たちの心のうちにも。
今日も。
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私たちの神よ、
偉大にして力強く畏るべき神よ、
忠実に契約を守られる神よ、
私たちが被った苦難のすべてを、
取るに足らないことと見なさないでください。
ネヘミヤ記932

 盲人は叫んだ。
「ダビデの子よ、憐み給え。」
イエスは立ち止まり「呼びなさい」と言われた。
人々は彼に「安心して、立ちなさい。お呼びだ」と言った。
マルコ104849

 Ⅰテモテ
6:(35611a
 ルカ131017
  (ローズンゲン々の聖句9/26;火)

自分たちの思うままに外国の神々を拝み、たび重なる天の神、主からの呼びかけにも答えようとしなかったイスラエルの民。
天の神、主は、民をこれ以上放置できなくなったようですね。
イスラエルの民は、ついにバビロン軍によって国を滅ぼされ、
主だった者はバビロンに捕囚とされたのだそうです。

 そして、
70年、ついに、天の神、主のご計画の時が満ちて、
ペルシャの王、クロスによって帰還を許され、ゼルバベルを中心に神殿再建を果たしたのだそうです。

けれども、それからおよそ70年、エルサレムの城壁は崩されたままで、民は周辺国の侮りと苦難の中にあり、
それを聞いた、ペルシャの王アルタシャスタの献酌官であったネヘミヤは、断食して祈り、
王に願い出てエルサレム帰還を許され、エルサレムの城壁再建を果たしたのだそうです。

そのネヘミヤが天の神、主に訴えているのですね。
「アッシリアの王たちの時代から今日まで、私たちの先祖と、あなたの民全部に降りかかったすべての困難を、どうか今、小さい事とみなさないでください」と。


イエスがエリコを通られているとき、道ばたで物乞いをしていた盲人、パルテマイは、
人々の制止を振り切って「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び続け、
イエスから見えるようにしていただいて、イエスについて行く者になったのだそうです。

また、イエスは、安息日に会堂に来ていた、18年間、腰が曲がって、全然伸ばすことができない女性を呼び寄せ、
「あなたの病気はいやされました」と言って、手を置かれ、
腰が伸びるようにされたのだそうです(ルカ131017)。


敬虔、それは、大きな叫び声と涙とをもって願うことができる、天の神、主との関係のようです(ヘブル57)。
私たちは金持ちになりたい者であり、敬虔を利得の手段としてしまうものでもあります。
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利得を受ける道、なのだそうです。

 使徒パウロは、弟子のテモテに書き送っています。
「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。
衣食があれば、それで満足すべきです。
金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。
これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい」(Ⅰテモテ
6611新改訳)と。

 思い煩い、心配事、願いも、思いっ切り、天の神、主に申し上げ、知っていただきながら、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、御思いを心に置いていただき、
御思いを私の心としながら、進みたいですね。
今日も。
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主は、ひととき、お怒りになっても、
命を得させることを御旨としてくださる。
泣きながら夜を過ごす人にも、
喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。
306

 あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。
このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
エフェソ書28

 フィリピ書
4814
 ルカ1369(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句9/25;月)

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
私たち一人一人に命を得させたいと思っていてくださる方なのですね。
それで、私たちのそむきをお怒りになることがあっても、それは、ひととき、つかの間のことなのだそうです。
夕暮れには涙を宿す、あるいは、泣きながら夜を過ごすようなことがあっても、
朝明けには喜びの叫びがあるように、
喜びの歌と共に朝を迎えるようにしてくださるのだそうです。

 天の神、主は、私たちが、地のちりから造られたものであり、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3522)、
自分の力では、そこから、自分を変えることができないものであることをよくご存じなのだそうです。

 それで、ご自身の側で、私たちを贖う、買い戻す計画を立ててくださり、
その、ご計画の時が満ちて、〔御子である神〕が、「女の子孫」として人の世に来て下さり(創世記315、ヨハネ114)、
私たちに代わって、私たちの「的外れ」の責任をとって、十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 〔父である神〕は、この墓に葬られたイエスを、全能の御力をもって、三日目、日曜日の早朝、死者の中から新しい霊のからだに復活させ、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語らせたのち、
オリーブ山で、弟子たちの見守る中、天の、ご自身の右の座に帰らせられたのだそうです。

 そのイエスが、今度は、ご自分に代わって、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を、受け入れる者に派遣してくださるのだそうです。
そして、この方が、私たちの心に〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いをおいてくださるのだそうです。
それで、私たちは、この方によって、〔父である神〕と同じ思いを思い、一つ心になって生きる、
愛し合う関係に入れていただけるのだそうです。

このことは、恵みによること、何の働きもなく、何の資格もない、いただけるはずのない者に、タダで、賜物、プレゼントとして与えていただけるのだそうです。
だから、私たちは、この方の言葉に信頼して、もらうだけ、受け取るだけ、でいいのだそうです。

 〔父である神〕は、私たちにも、
「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、賞賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めてほしい」(ピリピ48)とも、思っておられるのだそうですから。
今日も。
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思い煩いは何もかも神にお任せしなさい。
神が、あなたがたのことを心にかけていてくださる。
Ⅰペテロ579/24の週の聖句)

 わたしは、生と死、祝福と呪いをあなたがたの前に置く。
あなたがたは命を選びなさい。
申命記30:19

 イエスの言葉:
わたしが来たのは、
彼らが命を受けるため、
しかも豊かに受けるためである。
ヨハネ1010

 マタイ
62534
 詩20(通読箇所)
    (ローズンゲン日々の聖句
9/24;Ⅳ日)

 使徒パウロは、ピレモンに、ピレモンのところから逃亡した奴隷、オネシモのことについて、言っています。
「私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、
こういうわけですから、むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。
私は、あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。
それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、
自発的でなければいけないからです」(ピレモン
8914)と。


天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、私たちと愛し合う関係を深めたいと思っていらっしゃる方なのだそうです。

 愛し合う関係、それは、強制されたものではなく、自由意思で、自発的なものなのですね。
それで、天の神、主は、私たちが、自由意思で、自発的に、自分からすすんで、
ご自身との愛し合う関係に入ってほしいと願っておられるのだそうです。

それで、私たちの前にも、生と死、祝福と呪いの道を置かれているのだそうです。
人となられた〔御子である神〕、イエスに、
私たちの、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、
創造の目的から「的外れ」になっている責任を負わせて、
私たちの身代わりにして、十字架刑で処刑し、私たちを処罰済みのものとし、
そのイエスによって、私たちにもう一人の助け主、〔聖である霊」と呼ばれる方を派遣し、
この方によって、〔父である神〕が私たち一人一人に対して持っておられる御思いを、私たち、それぞれの心に置いてくださって、
私たちが、〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにして生きる道を用意し、
私たちに差し出していてくださるのだそうです。

神が仰る「われわれのかたちとして、われわれに似せた」(創世記126)もの、
イエスが仰る、「わたしたち(
父である神、御子である神、聖なる霊と呼ばれる神)が一つであるように、彼らがわたしたちとひとつになって」(ヨハネ172123)、
命を豊かに受けて生きる道を。

けれども、私たちは、この天の神からの提案を拒否、あるいは無視して、今までどうり、
「神のひとりのようになろう」とし、「善悪を知る者」として、
自分の理性を神とし、その善し悪しの判断のままに、天の神、主に対立、対抗して生きる、
創造の目的から「的外れ」になったものとして、
最終的には滅びに至る死の道を進む自由も与えられているのだそうです。

そのうえで、天の神、主は、私たちにいのちの道を選び、
ご自身と愛し合う関係に戻ってきてほしいと、よりを戻してほしいとおっしゃっておられるのだそうです。

 私たちが、天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方を、「私の神」とし、
思い煩いの一つ一つを、私たちのことを心にかけていてくださる、この方に話して、知っていただきながら、平安のうちを生きるようになってほしいと(ピリヒ゜467)。


 この方は、種を蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしない空の鳥を養っていてくださる方。
働きもしない、紡ぎもしない野のユリを、栄華を極めたソロモン王よりも美しく装ってくださる方。

 だから、自分一人で思い煩っていないで、
十字架に架かられ、復活し、天の〔父である神〕の右の座に帰っておられるイエス、
そのイエスを通して来て下さる〔聖である霊〕と呼ばれる方、
その方が心に置いてくださる、〔父である神〕の御思いが、
自分自身を通してもなっていくことを求めるほうに心を向けていってほしいのだそうです(マタイ62534)。

 そして、私たちも言うのですね。
「苦難の日に、主があなたにお答えになりますように。
ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。
主が天の御座から、あなたに助けを送り、あなたを支えられますように。
あなたのささげものをすべて心に留め、受け入れてくださいますように。(詩篇2013新改訳)と。
この新しい週も。
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人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう。
あなたが顧みてくださるとは。
85

 神は私たちを愛して、
イエス・キリストにおいて選ばれ、
神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
神がその愛する御子によって与えて下さった輝かしい恵みを、
私たちがたたえるためです。
エフェソ書146

 Ⅱテサロニケ
21317
 ルカ1315(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句9/23祝;土)

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、それほどまでに、私たち、人間のことを大切に思い、御心に留めていてくださるのですね。

 イエスのおられた頃、あるガリラヤ人たちがローマ総督ピラトによって殺されたり、シロアムの塔が倒れて18人の人が死んだことがあったのだそうです。
あるいは、今も、地震で家が倒れ下敷きになったり、山が崩れや津波に飲み込まれたりとか、災難に遭うことがあります。
 イエスは、そのような人たちが、ほかの人たちよりも罪深かったから、そのような災難に遭ったわけではないと言われるのですね(ルカ1315)。
 私たち、いつ、どんな災難に遭っても誰にも文句の言えないはずの者ですが、
このように、平穏無事に過ごせているのは、
私たちが善い者であるからではなく、
私たちは自分のそむきと的外れの中で、死んで当然の者なのに、
なお、天の神、主が顧みて、守っていてくださるから、なのでしょうね。

 〔父である神〕は、すべての人をご自分の子にしようと、すべての人の贖
(あがな)(買い戻し)の代金として、〔御子である神〕のいのちを支払っていてくださるのだそうです。
すべての人が、これを受け取り、ご自分のところに帰って来てほしいと願って。

 ご自分と一つ家族となり、お互いに思いを明かし合い、全部知り合って、心が通じる者、分かり合っている者となって、一つ心で生きていく関係になって欲しいと。

私たちの身代わりとなって十字架刑での処刑を受けてくださり、
墓に葬られ、三日目に死人のうちから新しい霊のからだによみがえり、
40日に渡って、弟子たちに何度も現れて神の国のことを語られたあと、
弟子たちが見守る中、オリーブ山から、天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス。

 そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる神。
その方が、私たちのことを〔父である神〕に執り成してくださり(ロマ82627)、
また、私たちの心にも、〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるのだそうです。
それで、私たちも、イエスがそうであったように(ヨハネ828)、
〔父である神〕の御思いを心に持ち、御思いによって行動していく者にもしていただけるのだそうです。
あらゆる良いわざに進み、心に慰めを受け、心を強められて(Ⅱテサロニケ217)。
そして、イエスと同じに、天のご自身の栄光にともに輝く者にと。
今日も。
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聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた。箴言2012

 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。Ⅰテサロニケ521

 ヨハネ
133135
 ルカ125459(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句9/22;金)

よく聞いて、よく見て、よく吟味し、よく見分けて、良いものを大事にし、固く守るようにと、天の神、主は仰るのですね。

 イエスは、ご自分が、いよいよ、明日は十字架刑での処刑を受けられるという前夜、
弟子たちとの最後の夕食の席で言われたのだそうです。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。
互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ1334)と。

 自分が「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて、
自分の心のうちからは、互いに対立し、張り合うばかりの思いしか出て来ない者であるという、自分の実態をよく見ている者は、
天の神、主が、プレゼントとして差し出していてくださる、
イエスが受けられた十字架刑での処刑による、自分の「生まれた時からの私」という霊の処刑、死亡手続きを受け取る思いにもなるようですね。

 そして、死んで葬られ、三日目、日曜日の早朝、墓から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて、神の国のことを語った後、
弟子たちの見守る中、オリーブ山から、天の、〔父である神〕の右の座に帰られた(使徒1311)、
そのイエスがご自分に代わって派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方(ヨハネ141626)をお迎えする心にも。

 この方が、私たちの心にも、〔父である神〕の御思いを置いてくださるので(エレミヤ3133、エゼキエル362627)、
張り合うばかりの私たちの心にも、〔父である神〕の愛の御思いが来て、
イエスが〔父である神〕の愛の御思いによって私たちを愛していてくださるように(ヨハネ1249501410)、
私たちも愛し合う者にしていただけるのだそうですから。

だから、よく聞き、よく見て、天気を見分けるように、今がどういう時代なのかをよく見分けて、
何が正しいかを判断しなさいと言われるのですね。
そして、告訴する者といっしょに役人の前に行っている人が、途中でも、熱心に告訴しようとしている人と和解して、告訴を取り下げてもらおうとするように(ルカ125459)。

今の時代は、〔父である神〕が、イエス・キリストにあって、この世をご自分と和解させ、
違反行為の責めを人々に負わせないで、罪を知らない方、〔御子である神〕イエスに負わせて処刑にし、
私たちの処罰が終わっていることにして、
誰からも、私たちを訴える者、サタンが、私たちを地獄の道連れにしようと
どんなに私たちの罪を告訴しても心配がないようにしてくださって、
ご自分の家族になり、ご自分と思いを一つにして生きようよ、と、
和解を提案していてくださっている時代なのだそうですから(Ⅱコリント51821)。
今日も。
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朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ。
それは、むなしいことではないか。
主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
1272

 私たちの神は、
ご自分の栄光の富に応じて、
キリスト・イエスによって、
あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
フィリピ書419

 歴代誌上
29918
 ルカ124953(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句9/21;木)

 自分で生きていると思っている人は、自分一人の力で一生懸命に努力し、
朝早く起き、夜おそくまで働き、生活の糧を得るために焦慮、辛苦することになるようですね。
けれども、天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
ご自分の栄光の富をもって、
キリスト・イエスによって、私たちに必要なものをすべて満たしてくださる方なのだそうです。
だから、自分一人で、何とかしなくっちゃあとやっているところから、向きを変え、
天の神、主のほうに目を向けて、
この方に相談しながらやっていきなさい、と勧めてくださっているようです。
そうしていると、山のように、目の前に立ちふさがっていた困難も(詩篇
1211)、
そうこうしているうちに、気がついてみると通り過ぎていたということにしてくださるのだそうです。


ダビデ王が、人々に、「私は全力を尽くして、私の神の宮のために、金、銀、青銅、鉄、木、しまめのう、色とりどりのモルタルの石のための象眼細工、あらゆる宝石、大理石を用意した。
そのうえ、私は神の宮を喜ぶあまり、私の宝としていた金銀をささげた。
きょう、だれか、みずから進んでその手にあふれるほど、主にささげる者はないだろうか」と呼びかけたのだそうです。
すると、民は、みずから進んでささげ、大いに喜んだのだそうです(Ⅰ歴代誌2919新改訳)。
 そのように、天の神、主によって運ばれている者は、心に余裕ができ、喜びがあるようです。


イエスは言われました。
「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。
だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。
それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう」(ルカ124950)と。

「わたしが受ける、受けなければならない、苦しいバプテスマ」。
私たち、人間のそむき、反逆の罪の中にどっぷりと浸され、沈められ、神に反逆した者と成り切って、
十字架刑で天と地の間に高く掲げられて処刑される。
しかし、そのことが成らなければ、「地に火が燃える」ことは成らなかったということのようです。
〔聖である霊〕と呼ばれる方が、地の、私たちのうちに来られて、
「火が燃える」ように、この方の働き、
〔父である神〕の御思いが私たちのうちに来て、私たちが〔父である神〕と一つ心になって行動していくようになる出来事が。

 イエスが十字架刑での処刑を受けられ、イエスが受けるべきバプテスマが完了している(ヨハネ1930)今は、地に火は投じられ、燃えているのだそうです。
そして、受け取りさえすれば、その出来事は私たちにも始まるのだそうです。

 それで、これを受け取った者と、まだ受け取らない者とが、自分の思いによって生きるか、天の神、主の御思いを受け、自分の思いも天の神、主に受け取っていただきながら、神と心を一つにしながら生きるか、で、
家族の中でも分裂が起こるのだそうです(ルカ1251~53)。

 けれども、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒1631)とも、言っていただいていて、
対立する家族も、神の家族として、本当の意味で、再び得ることにしていたでけるのだそうです。

 天の神、主は、私たちにも、ご自分の栄光の富に応じて、イエスによって、必要のすべてを満たしてくださり、安心して眠れるようにしてくださるのだそうですから。
今日も。
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