2017年10月

悪を避け、善を行い、
平和を尋ね求め、追い求めよ。
3415

 キリストも私たちを受け入れてくださったように、
あなたがたも互いに受け入れて、
神の栄光をあらわすべきである。
ロマ書157(口語訳)

 マタイ
52101112
 ロマ書
32128
 エゼキエル書111425(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句
10/31;火)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
私たちが、悪を避け、善を行い、平和を尋ね求める者であるようにと
願っていてくださる方のようですね。

イエスは、私たちのそむき、的外れの責任をご自身に引き受けて、
私たちを、このままで受け入れてくださっているのだそうです。

 私たちも、イエスの十字架刑での処刑を、
私たち自身である〔生まれた時からの私〕という霊の処刑としていただき、
イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方によって、心に、〔父である神〕の御思いを置いていただけるのだそうです。

それで、私たちの心にも、
イエスが私たちを受け入れてくださったのと同じ思いが来て、
私たちも、イエスが受け入れてくださったように、
互いに受け入れ合う思いを持つようにしていただけるのだそうです。

それで、イエスが言われるように、
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
心の清い者は幸いです。その人たちは神を見るから。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
義のために迫害されている者は、幸いです。
天の御国はその人たちのものだから(マタイ5210新改訳)、
という者にしていただけるのだそうです。

聖書で預言されているとおりに、
イエスが、私たちの身代わりになって十字架刑での処刑を受けてくださって、
私たちを処罰済みのものにしていてくださり、
墓に葬られ、三日目に死者の中から復活し、
〔天の父である神〕の右の座に帰られた、そのイエスを通して
〔聖である霊〕と呼ばれる方が来て下さって、
受け入れる者が〔父である神〕と思いを一つにして生きるようにしていただける今は、
これを受け取る者、もらう者は、
価なしに、何の働きもなしに、義と認めていただけるのだそうです(ロマ32128)から。

「わたしは、すべての忌むべきもの、忌み嫌うべきものを取り除こう。
わたしは彼らに一つの心を与える。
すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。
わたしは彼らのからだから、石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。
それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うためである。
こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(エゼキエル111820
と約束されているとおりに。
今日も。
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わたしはお前たちを更に栄えさせる。
そのとき、お前たちは
わたしが主であることを知るようになる。
エゼキエル3611

 私たちすべてのために、
その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、
御子と一緒にすべてのものを
私たちに賜らないはずがありましょうか。
ロマ832

 Ⅱテサロニケ
3613
 エゼキエル10122(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/30;月)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、エゼキエルを通して言われたのだそうです。

「お前たちを、以前にもまして、更に栄えさせる」と。

それは、普通の栄え方ではなく、
常識を超えた、神の関与がなければあり得ないような栄え方、
みんなが、神が栄えさせたのだと分かるような栄え方のようですね。


 使徒パウロは、書き送っています。
「私たちすべてのために、
ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、
どうして、御子といっしょに
すべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」と。

 締まりのない、怠惰な生活、
自分で働かないで、おせっかいばかりをして、
人のパンをただで食べるような生活ではなく、
静かに、落ち着いて仕事をし、
自分で得たパンを食べるようにしてくださるのも(Ⅱテサロニケ3613)、
神の恵みによること、神からの賜りものなのでしょうね。

 〔父である神〕は、私たちが落ち着いて仕事場出来るようにと、
御子と一緒に、すべてのもの、
働けるからだも、理性も、環境も、社会情勢も、
すべて整えて下さっているのだそうですから。
今日も。
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主がお前に求めておられるのは、
正義を行い、
慈しみを愛し、
神と共に歩むことである。
ミカ書6810/29の週の聖句)

 アモスは言った。
「私は牧者である。
私はいちじく桑の木を作るものである。
ところが主は私を取り、
『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と、
私に言われた。」
アモス書71415(口語訳)

 預言する者は、人に向かって語っているので、
人を造り上げ、
励まし、
慰めます。
Ⅰコリント143

 マルコ
10291016) 
 詩
69116(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/29;Ⅴ日)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
私たちが、最上のささげものをすること、多くのささげものをすること、
当時、他の宗教でやっていたように、自分の長子を焼いてささげるほどの
宗教的熱心を喜ばれる神ではなく、
公義を行い、誠実を愛し、
へりくだって神と共に、ご自身と心を合わせて歩むことを求めておられる方なのだそうですね。

紀元前760年頃のこと、北イスラエル王国で、
「ヤロブアム王は剣で死に、イスラエルはその国から必ず捕らえられて行く
(だから、神に立ち返るように)」と預言するアモスに、
北イスラエル王国ベテルの祭司アマツヤは言ったのだそうです。
「先見者よ。ユダの地へ逃げて行き、その地でパンを食べ、その地で預言せよ。
ベテルでは二度と預言するな。
ここは王の聖所、王宮のある所だから」と。

それで、アモスはアマツヤに答えたのだそうです。
「私は預言者ではなかった。預言者の仲間でもなかった。
私は牧者(羊を飼う者)であり、いちじく桑の木を栽培していた。
ところが、主が群れを追っていた私を取り、主は私に仰せられた。
『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』と」(アモス71015)、と。


今は、〔御子である神〕イエスが、人の世にあって、人となって、すべての人のそむき、「的外れ」の責任をご自身の身に負って、すべての人の身代わりとなり、十字架刑での処刑を受けてくださって、私たちの処罰が終わっていることにしてくださっている時なのだそうです。

それで、〔聖である霊〕と呼ばれる方が私たちのところに来られても、
処罰は終わっているものとみなしてくださり、
私たちは滅びないで済むのだそうです。

〔父である神〕は、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって、この方によって、私たちの心に、ご自身が思っておられる御思いを置いてくださり、
私たちがご自身と同じ思いを持つようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:25~28)。

それで、農夫であったアモスが用いられたように、私たちも、
〔父である神〕が、「徳を高め、勧めをなし、慰めを与えよう」と思われるとおりに、
その言葉を取り次いでいく者にもしていただけるのだそうです。
神と思いを一つにしながら歩む者、
神がしようと思われることをしていく者に(ヨハネ14:12)。
この新しい週も。
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喜びの声をもって告げ知らせ、
地の果てまで響かせ、届かせよ。
主は僕ヤコブを贖
(あがな)われた、と言え。
イザヤ書4820

 御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、
全世界に宣べ伝えられる。
それから、終わりが来る。
マタイ2414

 使徒
14818
 エゼキエル書8118(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句
10/28;土)

 私たちは、今の世が、最初からずっとあって、
いつまでも変わらず、ずっと続くかのような前提でものを考えています。
けれども、この世界には、たしかに始まりがあり、そして、終わりが来るのだそうです。

イスラエルの民は、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が、預言者を遣わし、
帰って来るよう、何度呼び掛けても、
自分の思う道を歩むことを止めなかったのだそうです。

 それで、天の神、主は、これ以上放置できなくなって、
王をはじめ、主だった者たちを捕囚とし、バビロンへ移したのだそうです。

 それにもかかわらず、エルサレムに残っていた民は、
エルサレムの神殿の中でさえも、ねたみの像や、はうもの、獣の像、タンムズというバビロンの神や太陽などを拝むことをやめなかったようです(エゼキエル8118)。


パウロとバルナバがルステラ(現在のトルコにある町)へ行った時のこと、
パウロの話を聞いている人たちの中に、
足のきかない、生まれつき足のなえた、歩いたことのない人が座っていたのだそうです。

 パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、
大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言うと、
その人は飛び上がって、歩き出したのだそうです。

 それを見た人々は、「神々が人間の姿を取って、私たちのところにお下りになったのだ」と言って、
ゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、
二人に、いけにえをささげようとしたのだそうです。

それで、二人は、群衆の中に駆け込み、叫んで、これを止めさせたのだそうです。
「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。
そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、
天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、
福音(イエスによる喜びの知らせ)を宣べ伝えている者たちです。

過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々が
それぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。
とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。
すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、
食物と喜びで、あなたがたの心を満たしてくださったのです」と。


 そのようにして、2000年、
御国のこの福音は、全世界に宣べ伝えられて、あらゆる民へ証しされて来たのだそうです。
終わりに向かって。
イエスが大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来られ、
天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めてくださるその日に向かって。
今日も。

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正義を守り、恵みの業を行え。
わたしの救いが実現し、
わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
イザヤ書56:1

 めいめい自分のことだけでなく、
他人のことにも注意を払いなさい。
フィリピ書24

 マタイ
81417
 エゼキエル書7113(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/26;木)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が言われるのだそうです。

「公正を守り、正義を行え。
わたしの救いが来るのは近く、
わたしの義が現れるのも近いからだ。」

幸いなことよ。
安息日を守ってこれを汚さず
どんな悪事にもその手を出さない、
このように行う人、
これを堅く保つ人の子らは。

主に連なる外国人は言ってはならない。
「主はきっと、私をその民から切り離される」と。

宦官(宮廷に仕えるため去勢手術を受けている人)も言ってはならない。
「ああ、私は枯れ木だ」と。

まことに主はこう仰せられる。
「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、
わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにまさる分け前と名を与え、
絶えることのない永遠の名を与える。

 また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人はみな、
安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、
わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、
わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。
彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ(イザヤ5617新改訳)と。


 使徒パウロは書き送っています。
こういうわけですから、
もしキリストにあって励ましがあり、
愛の慰めがあり、
御霊の交わりがあり、
愛情とあわれみがあるなら、
私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、
同じ愛の心を持ち、
心を合わせ、志を一つにしてください。
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、
へりくだって、互いに人を自分よりも優れた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。
それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです(ピリピ215)と。

 イエスは、私たちのわずらいを、ご自身の身に引き受け、
私たちの病を背負ってくださって、
私たちをいやしてくださるのだそうです(マタイ81417)。

 そして、私たちのそむき、「的外れ」の責任をご自身に引き受け、
私たちの身代りになって十字架刑での処刑を受けてくださって、
私たちを処罰済みとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、これを受け取った者に、
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方の働きで、私たちの心に、〔父である神〕の御思いを置いてくださるのだそうです。

 それで、私たちにも、〔父である神〕の御思いが心に来て、
正義を守り、恵みの業を行う心、
「自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払い、心を配る」思いも
持つようにしていただけるのだそうです。
今日も。
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主の救いを黙して待てば、幸いを得る。哀歌326

 約束してくださったのは真実な方なのですから、
公に言い表した希望を揺るがぬよう
しっかり保ちましょう。
ヘブル書1023

 ルカ
131017
 エゼキエル書418(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句
10/25;水)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は慈しみ深い方。

主の救いを黙って待つのは良いこと、なのだそうです。
約束してくださった方は真実な方ですから、
私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白していけばいいのだそうです。

 イエスはある安息日に会堂で教えておられたのだそうです。
すると、そこに18年も病の霊につかれ、
腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女性がいたのだそうです。

 イエスはその女性を見て、呼び寄せ、
「あなたの病気はいやされました」と言って、手を置かれると、
その女性は、たちどころに腰が伸びて、神をあがめたのだそうです(ルカ131017新改訳)。

 私たちにも、約束は、必ず、実行してくださるのだそうですから。

あなたがたはわたしが創造するものにより、
とこしえに楽しみ、
喜びを得よ。
イザヤ書6518口語訳

 全能者である神、主よ、
あなたの業は偉大で、驚くべきもの。
諸国の民の王よ、
あなたの道は正しく、また、真実なもの。
黙示録153

 ルカ
51216
 エゼキエル書32227(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句
10/24;火)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
天地、万物、このすべてのものを創造された方なのだそうです。
これらのものを、無目的に、たまたま、思いつきで、造られたのではなく、
私たち人間の住まいとして(イザヤ
4518)、
私たち人間を喜ばせようと思って、
細かい配慮をして、造ってくださったようです。
御思いのとおりに、正義と真実をもって。

 イエスがある町におられたとき、全身ツァラート(ハンセン病)の人が、
イエスの前にひれ伏してお願いしたのだそうです。
「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」と。
イエスは手を伸ばして、彼にさわり、
「わたしの心だ。きよくなれ」と言われると、
すぐに、そのツァラートは消えたのだそうです(ルカ
51213)。

 天の神、主は、私たちが悲しみや苦しみの中にいるのを、
ただ、黙って見ておられるだけの方ではなく、
私たちをいやし、ご自身とともに喜び、楽しむようにと思ってくださり、
求める者に答えてくださる方のようですね。

また、イエスご自身、よく荒野の誰もいないところに退いて、
〔父である神〕と過ごす時を楽しんでおられたようです(ルカ516)。

 〔父である神〕は、私たちとも、一緒に過ごし、
ともに喜び合いたいと思っておられるようです。
イエスによって、
ありのままの、本当の、
単一の思いに成り切って(ヤコブ4:8)、
はばかることなく、御前に出られるようにしてくださって(ヘブル4161022)。
今日も。
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あなたの業を主にゆだねれば、
計らうことは固く立つ。
箴言163

 あなたがたの内に働いて、
御心のままに望ませ、
行わせておられるのは神です。
フィリピ書213

 出エジプト記
152227
 エゼキエル書31221(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句
10/23;月)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が、
すべてのものを、ご自分の目的のために造られたのだそうです。

 私たちは心に計画を持ちます。
天の神、主が、その舌に答えを与え、
その一歩一歩を備えてくださり、
その歩みを確かなものにしてくださるのだそうです(エゼキエル
1619)。

 この方が、御心のままに、私たちのうちに働いて志を立てさせ、
事を行わせてくださるのだそうですから。

 イエスは、私たちすべての人間のそむき、「的外れ」の責任を、全部、
ご自身の身に引き受けて、十字架刑での死刑を受けてくださったのだそうです。

それで、このイエスによって、私たちへの処罰が終わっている今は、
〔父である神〕は、このイエスを通して、
もう一人の方、「聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって、
この方によって、私たちの心に、
私たち一人ひとりに思っておられる御思い、
私たち一人ひとりを通してしようと思われる御思いを置いてくださり、
私たちがご自身と同じ思いを思い、しようと思われることをしていくようにしていてくださるのだそうです。


エジプトを出て、葦の海から旅立って、三日間、飲む水がなくて、
ようやく、マラに到着したのですが、
マラの水は苦くて飲むことができなかったのだそうです。
その時、天の神、主は、モーセに1本の木を示され、
モーセがそれを水に投げ入れると、水は甘くなり、飲むことができるようにしてくださったように。

そのとき、仰せられたのだそうです。
「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、
主が正しいとみられることを行い、
またその命令に耳を傾け、
そのおきてをことごとく守るなら、
わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。
私は主、あなたがたをいやす者である」(出エジプト152227)と。

 私たちも、心に置いてくださる御思いに耳を傾け、
ペテロのように、
「私はそう思わないけれど、でも、おことばどおりやってみましょう」(ルカ55)と、
一歩、踏み出してみると、
神の働きの現れを見ることになるのだそうですから。
今日も。
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主よ、あなたがいやしてくださるなら、
私はいやされます。
エレミヤ書1714

 立ち上がって実行せよ。
主が共にいてくださるように。
歴代誌上2216

 シモン・ペテロの言葉:
先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、
何もとれませんでした。
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。
ルカ55

 マルコ
2112
 詩32(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/22;Ⅳ日)

 ある町で、全身ツァラート(重い皮膚病、あるいはハンセン病)の人が、イエスを見ると、
ひれ伏してお願いしたのだそうです。
「お心一つで、私をきよくしていただけます」、と。
それでイエスは手を伸ばして、彼にさわり、
「わたしの心だ。きよくなれ」と言われると、
すぐに、そのツァラートが消えたのだそうです(ルカ
51214新改訳)。

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
「在りて在る者」、「あろうと思われるとおりにある」お方なのだそうです。
この方がいやしてくださるなら、いやそうと思ってくださるなら、
その御思いのとおりに私たちはいやしていただけるようですね。


ダビデは、息子のソロモンに、神殿の建設について、
「立ち上がって実行せよ。主が共にいてくださるように」と命じました。
そして、ソロモンがイスラエルの王となったとき、
これを実行し、完成させることができたのだそうです。


イエスが、漁から帰って網を洗っていたシモンに、
「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を取りなさい」と言われたとき、
(この当時、ガリラヤ湖では夜に漁をしていたようですが)、
「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つとれませんでした」と答えたのだそうです。
だから、真昼間の今、漁をしたって、何もとれるはずがありませんよ」と。
けれども、シモンは、それで終わらず、
「でも、おことばどおり、網を降ろしてみましょう」と、イエスの言葉のとおりにやってみたのだそうです。
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになったのだそうです。
これを見て、シモンは、イエスの足もとにひれ伏したのだそうです。
そしてこの後、イエスに従う者になり、イエスからペテロという名をいただき、
12弟子のひとりに加えられることになったのだそうです。


 イエスが、カペナウムに来られたとき、
家におられることが知れ渡ったので、多くの人が集まり、
戸口のところまですきまもないほどになったのだそうです。
イエスは、この人たちにみことばを話しておられたのだそうですが、
そのとき、ひとりの中風の人が4人の人にかつがれて連れて来られたのだそうです。
けれども、群衆のためイエスに近づくことができなかったので、
その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、
中風の人を寝かせたまま、つり降ろしたのだそうです。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われ、
また、「(わたしが)あなたに言う。
起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われると、
彼は起き上がり、すぐに床
(とこ)を取り上げて、
みんなの見ている前を出て行ったのだそうです(マルコ2112)。


 〔父である神〕は、私たちに、イエスを通して、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです。
そして、この方によって、
ご自身が私たち一人ひとりに思っておられる御思いを私たちの心に置いてくださり、
私たちがご自身と同じ思いを思う、一つ心になるようにしてくださり、
ご自身がしようと思われることを私たちがしていくようにしてくださるのだそうです。

 私たち、自分の常識、判断に留まってしまう者ですが、
その御思いのとおりに、おことばのとおりに、立ち上がって行動する者に、
一歩踏み出してみて、御業を体験する者もにしていただけるのだそうです。
だから、「御霊(聖である霊と呼ばれる方)に満たされなさい」(エペソ5:15)と。
今日も。
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主よ。何に望みをかけたらよいのでしょう。
私はあなたを待ち望みます。
398

 イエスは病の娘に言われた。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。
安心して行きなさい。」
ルカ848

 マタイ
51724
 エゼキエル書2133(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/21;土)

 私たちは、自分の終わりを思うとき、自分のはかなさを知ることになります。
「私の一生は、神であるあなたの前では、ないのも同然です。
まことに、人はみな、盛んなときでも、まったく空しいものです」(詩篇
3945新改訳)と。

 けれども、私たち、自分自身に望みはかけられなくても、
天の神、主に望みをかけていいのだそうです。


 イエスが、会堂管理者ヤイロの家に向かっておられたとき、
大勢の人がひしめき合い、押し合いながらイエスについて行っていたのだそうですが、
そのとき、一人の女性が、イエスの衣の裾についているふさにさわったのだそうです。
「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えて。

 この女性は、12年の間長血をわずらっていて、
多くの医者からひどい目に会わされて、
自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、
だれにも直してもらず、かえって悪くなる一方だったのだそうです(マルコ
526)。

 イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」と言われたのだそうです。
その女性は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、
御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、
たちどころにいやされた次第とを話すと、
イエスは、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。
安心して行きなさい」と言われたのだそうです(ルカ
84348新改訳)。

私たちも、もう、何にも望みがかけられないときにも、
この方、天の神、主、「『私はある』という者」と名乗られる方には望みがあるのだそうです。

 イエスは、求める者に、律法学者やパリサイ人の義、
神の律法を自分の力で守ろうとして努力している人の義にまさる義を
与えて下さるのだそうですから(マタイ5:17~24)。

 イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちの心に、〔父である神〕が私たち一人ひとりに思っておられる御思いを置いてくださり、
心のほうから、私たちが〔父である神〕と思いを一つにするようにしてくださり、
〔父である神〕が、私を通してしようと思われることをしていく者にしてくださるのだそうです。

 私たち、自分自身には望みがないまま、この方に望みを置いて、安心して、出かけて行っていいのだそうですから。
今日も。
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