また、使徒パウロを通しても言われます。 「無分別な者、愚かな者とならないで、 主のみこころが何であるかを、よく悟りなさい」と。 イエスは、常に、 〔父である神〕といっしょにおられた方(ヨハネ16:32)、なのだそうです。 いつも、〔父である神〕と思いを同じくし、 心を一つにしておられた方、 〔父である神〕の御心を悟っておられた方なのですね。 それで、死んで、墓に納めら、 もう4日目になり、臭くなって来ているであろう、ラザロに対して、 心に来た〔父である神〕の御思いに従って、 マリヤについて来た人々の前で、 「ラザロよ。出て来なさい」と大声で叫ばれ、 顔は布で包まれ、手と足を長い布で巻かれたまま、出て来たラザロを、 「ほどいてやって、家に帰らせなさい」と言って、 マルタとマリヤに返されたのだそうです(ヨハネ11:32~45)。 私たちも、イエスの十字架刑での処刑と復活を通して 私たちに来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる 〔父である神〕の御思いについていくとき、 〔父である神〕から遣わされた者として、 神の栄光を現すために(ヨハネ11:40)用いていただけるのだそうです。 イエスに似た関係にしていただけて。 今日も。 [https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ] <a href="https://www.blogmura.com/point/00697809.html"><imgsrc="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/></a> |
2018年02月
私の心の思いを、ことごとく知っておられる方の御前で、心、安らかに
(ローズンゲン日々の聖句2/27;火) 「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3:5、22)、 さまよい出ている私たちを、 ご自身の家族にし、 愛し合い、ご自分と思いを同じくし、 心を一つにする者に回復しようと計画し、 それを実行してくださっているのだそうです。 だから、私たち、 自分の心が自分を責めても、 この方、天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方の御前で、 心を安らかにしておれるのだそうです。 はばかることなく、大胆に、御前に出て行けるのだそうです。 神は、私たちの心よりも大きく、 私たちのすべてを、 私たちの何もかもご存知のうえで、 愛し、いつくしんでいてくださり、 ことばや口先だけの愛でなく、 ご自身が、私たちの身代わりになり、 ご自身の身に私たちの「的外れ」の責任を負って、 十字架刑での処刑を受けてくださっているのだそうですから。 だから、自分の心がどんなに私を責めても、 サタンが、私たちを告訴し、 神の御前に、どんなに私の「的外れ」を並べ立てても(ヨブ11:17~31)、 私たちは、御子イエスにあって心安らかで、 大胆に神の御前にいることができるのだそうです。 イエスは、 「わたしはよみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません」(ヨハネ11:25~26) と言うことができるお方なのですから。 今日も。 [https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ] <a href="https://www.blogmura.com/point/00697809.html"><imgsrc="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/></a> |
悪を、神の栄光の現れに変え
私たちは先祖と同じく、 不正を行い、主に逆らった。詩106:6 私たちを悪い者から救ってください。マタイ6:13 創世記37:3~4、12~14、23~35(36) ヨハネ11:1~16(通読箇所) (ローズンゲン日々の聖句2/26;月) 私たちも、私たちの先祖と同じく、 アダムの罪を引き継いで、 「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3:5、22)、 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方に 逆らい、対抗して、 自分の理性による善し悪しの判断によって、 自分が正しいと思うことをしていく(士師記17:6)、 創造の目的から「的の外れた」ものになっている者、のようです。 その、「的外れ」のゆえに、ヤコブは、 4人の妻のうちの最愛の妻、ラケルの子、ヨセフを偏愛し、 兄弟たちは、父の偏愛のゆえに、 ヨセフと穏やかに話すことができなくなっており、 ついに、野で、ヨセフを殺そうと相談し、 殺すのは思いとどまったのですが、 ちょうど通りかかったミデヤン人の隊商にヨセフを売り渡したのだそうです。 |
正しい裁きを行いながら、慈しみとまことを全うして下さって
キリストが
私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対する愛を示されました。ロマ書5:8(2/25の週の聖句)
正しい裁きは御座の基、
慈しみとまことは御前に進みます。詩89:15
義のために迫害されている人々は、
幸いである。
天の国はその人たちのものである。マタイ5:10
マルコ12:1~12
詩35:1~16(通読箇所)
私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対する愛を示されました。ロマ書5:8(2/25の週の聖句)
正しい裁きは御座の基、
慈しみとまことは御前に進みます。詩89:15
義のために迫害されている人々は、
幸いである。
天の国はその人たちのものである。マタイ5:10
マルコ12:1~12
詩35:1~16(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句2/25;Ⅳ日)
それで、この方の愛を伝えていくとき、〔御子である方〕、イエスが迫害されたように、
伝える者も迫害されることもあるようです。
ちょうど、持ち主であるぶどう園の主人から
ぶどう園を借りている人たちに遣わされたしもべが、
はずかしめられ、迫害されたように(マルコ12:1~12)。
けれども、天の御国はその人たちのもの、なのだそうです。
天の神、主は、迫害する人たちが、
「あははは。われわれの望みどおりだ。
われわれは彼を、飲み込んだ」とは
言わせない(詩篇35:25)のだそうですから。
この新しい週も。
伝える者も迫害されることもあるようです。
ちょうど、持ち主であるぶどう園の主人から
ぶどう園を借りている人たちに遣わされたしもべが、
はずかしめられ、迫害されたように(マルコ12:1~12)。
けれども、天の御国はその人たちのもの、なのだそうです。
天の神、主は、迫害する人たちが、
「あははは。われわれの望みどおりだ。
われわれは彼を、飲み込んだ」とは
言わせない(詩篇35:25)のだそうですから。
この新しい週も。
[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]
<a href="https://www.blogmura.com/point/00697809.html"><imgsrc="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/></a>
心の悪を洗い去り、捨て去って
(ローズンゲン日々の聖句2/24:土)
私たちは、その胸に、よこしまな思い、
天の神、主に対抗し、
天の神、主のひとりのようになり、
自分の理性の判断で善悪を決めていく者になろうとする思いを持つ者なのですね。
これは、どんな洗剤を使っても、
どんな漂白剤を使っても
洗い去ることはできないのだそうです。
〔生まれたときからの私〕という霊から、噴き出して来る思いなのだそうですから。
だから、洗い去るためには、その、出所である
〔生まれたときからの私〕という霊を、殺すしかないのだそうです。
それで、神の〔御子〕である方が人となって人の世に来てくださったって、
私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださり、
受け入れる者を、この、イエスに合わせて、
十字架刑での処刑を受けた者、
死んだものと手続きをしてくださるのだそうです。
その上で、受け入れる者に、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、受け入れる者の心に
〔父である神〕の御思いを置いてくださり、
受け入れる者の心に
〔父である神〕の御思いが来るようにしてくださるのだそうです。
心の悪、よこしまな思いを洗い去ってくださって。
だから、この、〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る、
「天の神、主のひとりのようになり、
自分の理性の判断でことの善し悪しを決めて行こうとする」思いは、
そっくり、そのまま、イエスの御前に投げ出し、
捨て去って行けばいいのだそうです。
そして、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって
心に植え付けられた御思いを受け入れ、
その御思いのとおりに踏み出してみるのだそうです。
私たち自身とからだ、その手足を義の器として、神にささげるなら、
御思いが成るために用いていただけるのだそうです(ロマ6:12~18)。
モーセがエジプトの王パロとその家臣たち、およびその全土に対して、
あらゆるしるしと不思議を行い、
神の力強い権威とおそるべき威力を現したように。
私たちも。
今日も
私たちは、その胸に、よこしまな思い、
天の神、主に対抗し、
天の神、主のひとりのようになり、
自分の理性の判断で善悪を決めていく者になろうとする思いを持つ者なのですね。
これは、どんな洗剤を使っても、
どんな漂白剤を使っても
洗い去ることはできないのだそうです。
〔生まれたときからの私〕という霊から、噴き出して来る思いなのだそうですから。
だから、洗い去るためには、その、出所である
〔生まれたときからの私〕という霊を、殺すしかないのだそうです。
それで、神の〔御子〕である方が人となって人の世に来てくださったって、
私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださり、
受け入れる者を、この、イエスに合わせて、
十字架刑での処刑を受けた者、
死んだものと手続きをしてくださるのだそうです。
その上で、受け入れる者に、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、受け入れる者の心に
〔父である神〕の御思いを置いてくださり、
受け入れる者の心に
〔父である神〕の御思いが来るようにしてくださるのだそうです。
心の悪、よこしまな思いを洗い去ってくださって。
だから、この、〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る、
「天の神、主のひとりのようになり、
自分の理性の判断でことの善し悪しを決めて行こうとする」思いは、
そっくり、そのまま、イエスの御前に投げ出し、
捨て去って行けばいいのだそうです。
そして、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって
心に植え付けられた御思いを受け入れ、
その御思いのとおりに踏み出してみるのだそうです。
私たち自身とからだ、その手足を義の器として、神にささげるなら、
御思いが成るために用いていただけるのだそうです(ロマ6:12~18)。
モーセがエジプトの王パロとその家臣たち、およびその全土に対して、
あらゆるしるしと不思議を行い、
神の力強い権威とおそるべき威力を現したように。
私たちも。
今日も
慰め、救ってくださるのだそうです。私たちの下から支えて。
〔御子である神〕は、 〔父である神〕の御思いに従い、 大祭司として私たちを執り成し、 私たちを、聖、取り分けられた者、神の子とし、 〔父である神〕と思いを同じにし、心を一つにする者とするために、 私たち人間と同じように、血と肉を持つ者となってくださり、 人として、人の世に来られて、 すべての点で私たちと同じようになってくださったのだそうです。 ご自身が試みを受けて苦しまれたので、 苦しみにあっている人のことを分かってくださり、 助けてくださるのだそうです(ヘブ2:11~18)。 私たちがどん底にいたとしても、 さらにその下から私たちを支え、 私たちが〔父である神〕と心を一つにして生きるよう、 助けてくださるのだそうです。 「永遠の御腕が下に」ある(申命記33:27)のだそうですから。 今日も。 [https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ] <a href="https://www.blogmura.com/point/00697809.html"><imgsrc="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/></a> |
在ろうと思われるとおりに、在られる方が、
主は言われたことを、
なされないことがあろうか。
告げられたことを、
成就されないことがあろうか。民数記23:19
イエスはすぐに手を伸ばしてペテロを捕まえ、
「信仰の薄い者よ、
なぜ疑ったのか」と言われた。マタイ14:31
ヤコブ書4:1~10
申命記31:1~8(通読箇所)
手ぶらでも、何も持たないままでも、
御思いの中に一歩、踏み出して行けば、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が共にいて、
なされないことがあろうか。
告げられたことを、
成就されないことがあろうか。民数記23:19
イエスはすぐに手を伸ばしてペテロを捕まえ、
「信仰の薄い者よ、
なぜ疑ったのか」と言われた。マタイ14:31
ヤコブ書4:1~10
申命記31:1~8(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句2/22;木)
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方。
「ありて、ある者」、
「あろうと思うとおりに、ある」ことが出来る方。
その方が、こうすると言われたことを
なされないことがあるだろうか、というのですね。
天の神、主は、モーセの、出エジプトの時、
海の水を分け、民を海の底を渡らせたのだそうです。
そして、イエスは、ガリラヤ湖の水の上を歩いて、
弟子たちの舟に近づかれたのだそうです。
すると、ペテロが
「主よ。もし、あなたでしたら、
私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」というと、
イエスは「来なさい」と言われ、
ペテロは舟から出て、
水の上を歩いてイエスのほうに行くことが出来たのだそうです。
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方。
「ありて、ある者」、
「あろうと思うとおりに、ある」ことが出来る方。
その方が、こうすると言われたことを
なされないことがあるだろうか、というのですね。
天の神、主は、モーセの、出エジプトの時、
海の水を分け、民を海の底を渡らせたのだそうです。
そして、イエスは、ガリラヤ湖の水の上を歩いて、
弟子たちの舟に近づかれたのだそうです。
すると、ペテロが
「主よ。もし、あなたでしたら、
私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」というと、
イエスは「来なさい」と言われ、
ペテロは舟から出て、
水の上を歩いてイエスのほうに行くことが出来たのだそうです。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので、
「主よ。助けてください」と言ったので、
イエスはすぐに手を伸ばしてペテロをつかみ、
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われ、
船に乗り移られたのだそうです。
イエスの弟のヤコブは言います。
「神に近づきなさい。
そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。
二心の人たち。
心を清くしなさい」(ヤコブ4:8)、と。
「清く」、ピュア(pure)、純粋に、混じりけがない、単一な心に。
苦しいなら苦しいだけ、
悲しいなら悲しいだけ、泣きたいならなきたいだけ、
憂いているなら憂いだけの心に成り切って、
直心、
その時その時の本当の心に成り切って、
神に近づきなさい、と。
へりくだって、自分のありのままの、
罪のままの、
信仰などない自分を認めて、
天の神、主にお願いしていきなさい、と。
そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます(ヤコブ4:9~10)、と。
「主よ。助けてください」と言ったので、
イエスはすぐに手を伸ばしてペテロをつかみ、
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われ、
船に乗り移られたのだそうです。
イエスの弟のヤコブは言います。
「神に近づきなさい。
そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。
二心の人たち。
心を清くしなさい」(ヤコブ4:8)、と。
「清く」、ピュア(pure)、純粋に、混じりけがない、単一な心に。
苦しいなら苦しいだけ、
悲しいなら悲しいだけ、泣きたいならなきたいだけ、
憂いているなら憂いだけの心に成り切って、
直心、
その時その時の本当の心に成り切って、
神に近づきなさい、と。
へりくだって、自分のありのままの、
罪のままの、
信仰などない自分を認めて、
天の神、主にお願いしていきなさい、と。
そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます(ヤコブ4:9~10)、と。
「天の神、主、「『わたしはある』と名乗られる方」、
「こうする」と言われたら、そのとおりになさる方、
その方ご自身が、私たちの先を進まれる。
主が私たちと共におられる。
主は私たちを見放さず、私たちを見捨てられない」(申命記31:8)方、
なのだそうですから。
恐れているなら、恐れているまま、
おののいているなら、おののいているまま、
「こうする」と言われたら、そのとおりになさる方、
その方ご自身が、私たちの先を進まれる。
主が私たちと共におられる。
主は私たちを見放さず、私たちを見捨てられない」(申命記31:8)方、
なのだそうですから。
恐れているなら、恐れているまま、
おののいているなら、おののいているまま、
手ぶらでも、何も持たないままでも、
御思いの中に一歩、踏み出して行けば、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が共にいて、
先に進み、しんがりを守り、
御業を実現してくださるのだそうですから。
今日も。
[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]
<a href="https://www.blogmura.com/point/00697809.html"><imgsrc="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/></a>
私たちの先を進み、しんがりも守ってくださるのだそうです。この方が。
恵み深く、憐れみに富む、驚くべき御業を記念しながら
恵み深く憐れみに富む主は、
驚くべき御業を記念するように定められた。詩111;4
私たちが神を賛美する賛美の杯は、
キリストの血にあずかることではないか。
私たちが裂くパンは、
キリストの体にあずかることではないか。Ⅰコリント10:16
ヨブ記1:1~22
申命記27:11~26(通読箇所)
それで、これにあずかっている者は、
イエスの裂かれた肉、流された血を記念しながら、
イエスによって締結された新しい契約(エレミヤ31:3134、エゼキエル36:25~28)、、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いによって、
イエスに合わせられ、心を一つにしていただきながら、
恵みと憐れみの御業の中を生きるのだそうです。
今日も。
驚くべき御業を記念するように定められた。詩111;4
私たちが神を賛美する賛美の杯は、
キリストの血にあずかることではないか。
私たちが裂くパンは、
キリストの体にあずかることではないか。Ⅰコリント10:16
ヨブ記1:1~22
申命記27:11~26(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖2/20;火)
イエスは、ご自分が、数時間後には捕らえられ、
十字架刑での処刑を受けられる前の晩の、
過ぎ越しの祭りの食事の席で、
過ぎ越しの杯を取り、感謝をささげて後、弟子たちに言われたのだそうです。
「これを取って、互いに分けて飲みなさい」。
それから、過ぎ越しのパンを取り、感謝をささげてから、裂いて、
弟子たちに与えて言われました。
「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。
わたしを覚えてこれを行いなさい。」
食事の後、過ぎ越しの杯も同じようにして言われた。
「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」、と。
ヨブは、自分の7人の息子たちの誕生日の祝宴が一巡すると、
子どもたちを呼び寄せ、
彼らひとりひとりのために、
それぞれの全焼のいけにえをささげていたのだそうです。
「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、
心の中で神をのろったかもしれない」と思って(ヨブ1:5)。
私たち、天の神、主と、思いを一つにせず、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって」
自分の理性の善し悪しの判断のとおりを歩む者、
「神に呪われる」はずの者ですが(申命記27:11~26)、
〔父である神〕は、ヨブが子どもたちのためにしたように、
〔独り子である神〕を人間イエスとして人の世に遣わしてくださり、
イエスが十字架刑で裂かれた肉、流された血によって私たちを赦し、
受け入れる者に、もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
受け入れる者が、愛において、ご自身と思いを同じくし、
心を一つにするように、と、道を開いてくださっているのだそうです。
イエスは、ご自分が、数時間後には捕らえられ、
十字架刑での処刑を受けられる前の晩の、
過ぎ越しの祭りの食事の席で、
過ぎ越しの杯を取り、感謝をささげて後、弟子たちに言われたのだそうです。
「これを取って、互いに分けて飲みなさい」。
それから、過ぎ越しのパンを取り、感謝をささげてから、裂いて、
弟子たちに与えて言われました。
「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。
わたしを覚えてこれを行いなさい。」
食事の後、過ぎ越しの杯も同じようにして言われた。
「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」、と。
ヨブは、自分の7人の息子たちの誕生日の祝宴が一巡すると、
子どもたちを呼び寄せ、
彼らひとりひとりのために、
それぞれの全焼のいけにえをささげていたのだそうです。
「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、
心の中で神をのろったかもしれない」と思って(ヨブ1:5)。
私たち、天の神、主と、思いを一つにせず、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって」
自分の理性の善し悪しの判断のとおりを歩む者、
「神に呪われる」はずの者ですが(申命記27:11~26)、
〔父である神〕は、ヨブが子どもたちのためにしたように、
〔独り子である神〕を人間イエスとして人の世に遣わしてくださり、
イエスが十字架刑で裂かれた肉、流された血によって私たちを赦し、
受け入れる者に、もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
受け入れる者が、愛において、ご自身と思いを同じくし、
心を一つにするように、と、道を開いてくださっているのだそうです。
それで、これにあずかっている者は、
イエスの裂かれた肉、流された血を記念しながら、
イエスによって締結された新しい契約(エレミヤ31:3134、エゼキエル36:25~28)、、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いによって、
イエスに合わせられ、心を一つにしていただきながら、
恵みと憐れみの御業の中を生きるのだそうです。
今日も。
[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]
<a href="https://www.blogmura.com/point/00697809.html"><imgsrc="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/></a>
神の秘められた計画をゆだねられた管理者として
また、使徒パウロも、
自分たちを、キリストに仕える者、
神の計画をゆだねられた管理者として、
テサロニケの人たちに書き送っています。
「私たちが命じることを、あなたがたが現に実行しており、
これからも実行してくれることを私たちは主にあって確信しています。
どうか、神である主が、あなたがたの心を導いて、
神の愛とキリストの忍耐を持たせてくださいますように」(Ⅱテサロニケ3:4~5)と。
モーセもイスラエルの民に言いました。
「あなたがたが、あなたの神、主が与えようとしておられる地に向かって
ヨルダン川を渡る日には、
大きな石をエバル山に立て、
それらに石灰を塗り、
この、御教えのすべてのことば書きしるしなさい。
静まりなさい。
イスラエルよ。聞きなさい。
きょう、あなたは、あなたの神、主、
「『わたしはある』という者」と名乗られる方の民となった。
あなたの神、主の御声に聞き従い、
私が、きょう、あなたに命じる
主の命令とおきてとをおこないなさい」(申命記27:1~10)、と。
今、イエスの十字架刑での処刑と、復活によって、
新しい契約に仕える者、
文字に仕える者ではなく、
御霊に仕える者(Ⅱコリント3:6)としていただいた者は、
御霊、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いについて行く者、
御思いを実行していく者(エレミヤ31:31~33、エゼキエル36:25~28、ガラテヤ5:24~25)として用いていただけるのだそうです。
今日も。
自分たちを、キリストに仕える者、
神の計画をゆだねられた管理者として、
テサロニケの人たちに書き送っています。
「私たちが命じることを、あなたがたが現に実行しており、
これからも実行してくれることを私たちは主にあって確信しています。
どうか、神である主が、あなたがたの心を導いて、
神の愛とキリストの忍耐を持たせてくださいますように」(Ⅱテサロニケ3:4~5)と。
モーセもイスラエルの民に言いました。
「あなたがたが、あなたの神、主が与えようとしておられる地に向かって
ヨルダン川を渡る日には、
大きな石をエバル山に立て、
それらに石灰を塗り、
この、御教えのすべてのことば書きしるしなさい。
静まりなさい。
イスラエルよ。聞きなさい。
きょう、あなたは、あなたの神、主、
「『わたしはある』という者」と名乗られる方の民となった。
あなたの神、主の御声に聞き従い、
私が、きょう、あなたに命じる
主の命令とおきてとをおこないなさい」(申命記27:1~10)、と。
今、イエスの十字架刑での処刑と、復活によって、
新しい契約に仕える者、
文字に仕える者ではなく、
御霊に仕える者(Ⅱコリント3:6)としていただいた者は、
御霊、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いについて行く者、
御思いを実行していく者(エレミヤ31:31~33、エゼキエル36:25~28、ガラテヤ5:24~25)として用いていただけるのだそうです。
今日も。