神を愛する人は、 兄弟をも愛すべきです。 これが、神から受けた掟です。Ⅰヨハネ4:21(9/30の週の聖句) 苦難のはざまから 主を呼び求めると、 主は答えて 私を解き放たれた。詩118:5 私たちは イエス・キリストに結ばれており、 キリストに対する信仰により、 確信をもって、大胆に 神に近づくことができます。エフェソ書3:12 マルコ12:28~34 詩56(通読箇所) (ローズンゲン日々の聖句9/30;Ⅴ日曜) 私たちの神、主の喜びが、 私たちの上にありますように。 私たちの手の働きを、 私たちのために確かなものとし、 私たちの手の働きを、 どうか確かなものにしてください。詩90:17 イエスの言葉: わたしはぶどうの木、 あなたがたはその枝である。 人がわたしにつながっており、 わたしもその人につながっていれば、 その人は豊かに実を結ぶ。ヨハネ15:5 マタイ6:1~4 ガラテヤ書3:15~18(通読箇所) (ローズンゲン日々の聖句10/1;月) |
2018年09月
ご計画のとおりに。私たちが恐れおののく時にも。
恐れてはならない。
勇気を出すがよい。ゼカリヤ書8:13
パウロは旅に同行した皆に言った。
「神からの天使が昨夜私のそばに立って、
こう言われました。
「パウロ、恐れるな。
あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。
神は、一緒に航海しているすべての者を、
あなたに任せてくださったのだ。使徒27:23~24
ルカ10:17~20
黙示録12:7~12a(12b)
ガラテヤ書3:1~14(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句9/29;土)
天の神、主、
「『わたしはある(Iam)』という者と名乗られる方は、
私たち一人一人の生涯に
御思い、ご計画を持っていてくださるのだそうです。
だから、私たち自身は恐れ、退きたくなっても、
導きについて行って、
一歩踏み出していけば、
この方がご計画のとおりに運んで下さるのだそうです。
使徒パウロが、
エルサレムで捕らえられ、
ローマ皇帝の裁判を受けるため、
船でローマに護送される途中、嵐に遭い、
嵐の中、地中海を幾日も漂流し、
水夫たちでさえ助かる望みをなくしたとき、
天の神、主の使いがパウロに現れ、
「あなたは必ず、ローマ皇帝カイザルの前に立ちます。
同船している人たちも皆助かります」と告げ、
15日目に、マルタ島に、
全員、無事、上陸させてくださった(使徒27:23~44)ように。
イエスは、
12弟子とは別に70人を選び、
ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、
ふたりずつ先に遣わされたのだそうです。
「その町の病人を直し、
彼らに、『神の国(神の統治)があなたがたに近づいた』と言いなさい」と。
出て行って、イエスの言葉のとおりにした弟子たちは、
帰って来て、喜んでイエスに報告したのだそうです。
「主よ。
あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」(ルカ10:1、17)と。
そして、やがては次の言葉のようにしてくださるのだそうですから。
やがて、天に戦いが起こって、
大天使長ミカエルと彼の使いたちは、竜(サタン)と戦った。
それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、
天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
こうして、この巨大な竜、
すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、
全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。
そのとき私は、天で大きな声が、こういうのを聞いた。
「今や、私たちの神の救いと力と国と、
また神のキリストの権威が現れた。
私たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の前で訴えている者が
投げ落とされたからである。
兄弟たちは、
小羊の血と自分たちのあかしのことばのゆえに
彼に打ち勝った。
彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。
しかし、地と海とには、災いが来る。
悪魔が自分の時が短いことを知り、
激しく怒って、そこに下ったからである」(黙示録12:7~12新改訳)、という。
パウロは言います。
「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。
それとも信仰をもって聞いたからですか」と。
すべての人は、
自分の力で神の律法を守ることによって得る、
自分の義によっては、
神の前に義と認められる者はだれもいないのだそうです。
それで、〔父である神〕は、
私たち一人一人が負うべき責任のすべてを
御子イエスに負わせて十字架刑で処刑し、
このイエスが受けてくださった処刑で、
私たちの負うべき責任が果たされらこととし、
受け入れる者に
〔御霊〕、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
「律法」、ご自身の御思いを私たちの心に置いてくださり、
受け入れる者がご自身と一つ思いになるようにし、
アブラハムの祝福を受け継ぐ者にしてくださるのだそうですから(ガラテヤ3:1~14)。
私たちにも、
ご計画のとおりに。
今日も。
憐れみに、心、焼かれる思いで
わたしは激しく心を動かされ、
憐れみに胸を焼かれる。
わたしは神であり、人間ではない。
お前たちのうちにあって聖なる者。
怒りをもって臨みはしない。ホセア書11:8~9
罪が増したところには、
恵みはなおいっそう満ちあふれました。ロマ書5:20
使徒5:34~42
ガラテヤ書2:1~10(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句9/27;木)
神をたたえよ。
神は私たちの祈りを退けることなく、
慈しみを拒まれませんでした。詩66:20
あなたがたの父は、
願う前から、
あなたがたに必要なものを
ご存じなのだ。マタイ6:8
ヘブル書12:1~3
ガラテヤ書2:11~21(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句9/28;金)
天の神、主、
ご自身の民として選ばれながら
背信を続ける北イスラエル王国の人々に対しても、
このように言っておられるのですね。
そして、私たちの罪が増したところに、
それを上回って、
イエスによって、
ご自身の恵みを
いっそう満ち溢れさせてくださっていてくださるのだそうです。
この、神から出た恵みの出来事を
人間が滅ぼすことはできないのだそうです(使徒5:39)。
また、人間的な働き、
自分の義を付け加えることもしてはならないのですね(ガラテヤ2:6)。
天の神、主は、
私たちの祈りを受け入れてくださり、
慈しみを豊かに注いでくださるのだそうです。
私たちに必要なものは、
すべて、ご存知で、用意していてくださり、
私たちが求めるのを待っていてくださるのだそうですから。
私たちのまわりには、
この方の恵みを経験した人たちが
雲のように取り巻いているのだそうです。
それで、私たちも、
いっさいの重荷とまつわりつく罪とを、
この方の御前にかなぐり捨てて、
この方に見ていただき、受け取っていただきながら、
前に置かれている競争を走り続けるのですね。
信仰の創始者であり、
完成者であるイエスを見上げながら。
イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、
私たちに代わって、
私たちが受けるはずのはずかしめを受けてくださり、
十字架刑での処刑を受けて、
神に呪われた者として処刑されてくださり、
死んで葬られ、
三日目に死人のうちより新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、
天の〔父である神〕の右の座に帰っておられるのだそうですから。
今日も。
この方の勝利の中へ
主は あなたの足が罠にかからないように 守ってくださる。箴言3:26 私たちは、 私たちを愛してくださる方によって 勝利を収めています。ロマ書8:37 ルカ7:1~10 ガラテヤ書1:11~24(通読箇所) (ローズンン日々の聖句9/26;水) 天の神、主、 私たち人間を愛していてくださり、 私たちのわきにいてくださって、 私たちの足が罠にかからないよう守り、 私たちをキリストの愛から引き離そうとするものに対して 圧倒的な勝利を収めさせてくださる方なのだそうです。 この方のことばには権威があって、 ちょうど、兵卒が隊長の言葉のとおりに、 「行け」と言えば、行き、「来い」と言えば、来るように、 また、しもべに「これをせよ」と言えばそのとおりにするように、 すべてのものはこの方のことばに従うのだそうですから(ルカ7:1~1)。 教会を迫害し、これを滅ぼそうとしていたサウロも、 天の神、主が、彼の内に神の御子イエスを啓示されたとき、 彼はすぐに、この神の啓示に従いアラビアに出て行き、 やがて、使徒パウロとされていったように。 私たちも、 〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る、 〔父である神〕の御思いについて行きたいですね。 神の勝利の中へと。 私たちに代わって、 私たちのそむきの責任のすべてをご自分の身に負って 十字架刑での処刑を受けてくださり、 墓に葬られ、 三日目、日曜日の早朝、死人の中から新しい霊のからだに復活し、 40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語ったのち、 オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、雲に迎えられて見えなくなり、 天の父である神の右の座に帰られたイエス。 〔父である神〕は、そのイエスを通して 〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣し、 この方によって私たちの心に御自身の御思いを置いてくださるのだそうですから。 今日も。 |
約束されたことを、果たしてくださるのだそうです。必ず。
主はヤコブに言われた。 「わたしは、 あなたに約束したことを果たすまで 決して見捨てない。」創世記28:15 信仰によって、 ヤコブは死に臨んで、 ヨセフの息子たちの一人一人のために 祝福を祈りました。ヘブル書11:21 ヤコブ1:1~6(7~11)12~13 ガラテヤ書1:6~10(通読箇所) (ローズンゲン日々聖句9/25;火) 天の神、主、 私たちに対しても、 「約束したことを果たすまでは決して見捨てない」と仰ってくださる方、 なのですね。 そして、そのヤコブは、 死に臨んで、 この方への信頼において、 心に来たこの方の御思いのとおりに 一人一人に祝福(相続の遺言)をしたのだそうです。 人間的な見かたによれば、 イエスの弟にあたるヤコブは、 手紙で書き送っています。 私の兄弟たち。 さまざまな試練に会うときは、 それをこの上もない喜びと思いなさい。 信仰がためされると忍耐が生じるということを、 あなたがたは知っているからです。 その忍耐を完全に働かせなさい。 そうすれば、あなたがたは、 何一つ欠けたところのない、 成長を遂げた、完全な者となります。 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、 その人は、 だれにでも惜しげもなく、 とがめることなくお与えになる神に願いなさい。 そうすればきっと与えられます。 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。 疑うような人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。 ~~ 試練に耐える人は幸いです。 耐え抜いて良しと認められた人は、 神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。 だれでも誘惑にあったとき、 神によって誘惑された、と言ってはいけません。 神は悪に誘惑されることのない方であり、 ご自分でだれを誘惑なさることもありません(ヤコブ1:2~6、12~13)。 k この方を信頼して。 今日も。 |
望みが、志が起こっていますか?
世に勝つ勝利、
それは私たちの信仰です。Ⅰヨハネ5:4(9/23の週の聖句)
わたしは彼らの悪を赦し、
再び彼らの罪に心を留めることはない。エレミヤ書31:34
ヨハネの手紙:
わたしの子たちよ、
これらのことを書くのは、
あなたがたが罪を犯さないようになるためです。
たとえ罪を犯しても、
御父のもとに弁護者、正しい方、
イエス・キリストがおられます。Ⅰヨハネ2:1
マタイ15:21~28
詩37:21~40(通読箇所)
(ローズンゲン日々聖句9/23;Ⅳ日・祝)
あなたの神、主は、
あなたの手の業すべてに
豊かな恵みを与えられる。申命記30:9
あなたがたの内に働いて、
御心のままに望ませ、
行わせておられるのは神です。フィリピ書2:13
ヘブル書11:1~7(8~10)
ガラテヤ書1:1~5(通読箇所)
世に勝つ勝利、
それは、天の神、主、
私たちの信頼なのだそうですね。
天の神、主は、
私たちの悪、「的外れ」を赦し、
再び私たちの罪、「的外れ」に心を留めることはない、
と約束していてくださるのだそうですから。
父である神は、
御子イエスが、私たちに代わって、
私たちの責任のすべてをご自身に背負って
十字架刑での処刑を受けてくださったことによって、
受け入れる者に
「わたしの霊」と呼ばれる「聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、
この方によって受け入れる者の心に
御自身の御思いを置いてくださって、
受け入れる者が
ご自身と同じ思いを思うようにしてくださるのだそうですから。
「的外れ」の生き方しかできない私たちも、
天の神、主と一つ心にしていただけて、
「的に当たった」生活が出来るようにしていただけるのだそうですから。
神の民イスラエル人でなく、
イエスから
「子どもたちのパンを取り上げて、
小犬に投げてやるのは良くないことです」と断られたにもかかわらず、
「主よ。おっしゃるとおりです。
ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と
身を低くして、
イエスに、
「ひどく悪霊に取りつかれている娘を助けてください」と頼み続け、
イエスから
「あなたの信頼はりっぱです」と認めていただいた
スロ・フェニキア出のカナンの女のように(マタイ15:21~28)。
天の神、主は、御自身と思いと心を一つにする者の手の業や、
身から生まれる者、家畜の産むもの、地の産物を豊かに与えて、
栄えさせよう(申命記30:9新改訳)とおっしゃっておられるのだそうです。
〔父である神〕は、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
受け入れる者の心に、
御心のとおりの志を立てさせ、望みを起こしてくださって、
事を行わせてくださるのだそうですから。
この方への信頼において(ヘブル11:1~7)。
この新しい週も。
信頼して、何でも話せる方、ありますか?
真実な神は偽りなく、
正しく真っすぐな方。申命記32:4
私たちがイエスからすでに聞いていて、
あなたがたに伝える知らせとは、
神は光であり、
神には闇が全くないということです。Ⅰヨハネ1:5
ロマ書4:18~25
コヘレト(伝道の書)12:1~14(通読箇所)
(ローズンゲン日々聖句9/22;土)
天の神、主、
「『わたしはある(Iam)』という者」と名乗られる方は、
偽ることをなさらない、正しく真っすぐな方。
光そのものであり、
暗いところ、影が全くない方なのだそうですね。
だから、もし、私たちが神と交わりがあると言っていながら、
闇の中を歩いているなら、
神と交わりがあると言っているのは偽り、なのだそうです。
自分の罪を隠していくのではなく、
神の御前に言い表し、見ていただき、知っていただいて、
光の中の出来事、明るい出来事としていただけるのだそうです。
御子イエスが十字架刑での処刑で流してくださった血によって
きよめていただけるのだそうですから。
神を信頼することについて、
使徒パウロはアブラハムのことを例にとって言ってます。
彼(アブラハム)は、神から
「あなたの子孫は空の星のように、浜辺の砂のようになる」
との言葉をいただいていましたが(創世記22:17)、
妻サラに子どもは生れなくて、
アブラハム自身も100歳、妻サラは90歳にもなって、
自分のからだが死んだも同然であり、
サラの胎も死んでいることを認めても、
神に対する信頼は弱らず、
望みえないときに望みを抱いて信じました。
神に栄光を帰し、
神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのだそうです。
それで、その信頼が義とみなされ、
私たちも、主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる信頼を
義と見なしていただけて、
アブラハムの信頼に続く者にしていただけるのだそうです。
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、
私たちが義と認められるために、
よみがえられたのだそうですから(ロマ4:18~25新改訳)。
伝道者(ソロモン王)は言います。
あなたの若い日に、あなたの創造主を覚えよ。
わざわいの日が来ないうちに、
また、「何の喜びもない」という年月が近づく前に。
太陽と光、月と星が暗くなり、
雨の後にまた雨雲がおおう前に。
その日には、家を守る者は震え、
力のある男たちは身をかがめ、
粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ、
窓からながめている女の目は暗くなる。
通りのとびらは閉ざされ、
臼(うす)を引く音も低くなり、
人は鳥の声に起き上がり、
歌を歌う娘たちはみなうなだれる。
彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる。
アーモンドの花は咲き、
イナゴはのろのろ歩き、
ふうちょうぼくは花を開く。
だが、人は永遠の家へと歩いて行き、
嘆く者たちが通りを歩き回る。
こうしてついに、銀のひもは切れ、
金の器は打ち砕かれ、
水がめは泉のかたわらで砕かれ、
滑車が井戸のそばでこわされる。
ちりはもとあった地に帰り、
霊はこれを下さった神に帰る。
空の空。伝道者は言う。すべては空。
~~~
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。
神を恐れよ。神の命令を守れ
。これが人間にとってすべてである。
神は、善であれ悪であれ、
すべての隠れたことについて、
すべてのわざをさばかれるからだ(伝道の書12:1~14)。
のだそうですから。
だから、この方を信頼して、
隠れていることを、光の中に差し出し、
明るい、光の中の出来事にしていただくのだそうです。
今日も。
柔和な心をいただき、新しい地を受け継ぐ者に
主なる神は人を連れて来て、
エデンの園に住まわせ、
人がそこを耕し、守るようにされた。創世記2:15
柔和な人々は、幸いである。
その人たちは地を受け継ぐ。マタイ5:5
黙示録2:8~11
コヘレト(伝道の書)11:1~10(通読箇所)
(ローズンゲン日々聖句9/21;金)
天の神、主、
「『わたしはある(Iam)』という者」と名乗られる方は、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26新改訳)、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛し合い、自由意思で、自発的に思いを一つにしておられる、
自分のしたいことをするのではなく、
相手の思っていることが成るようにと願っておられる(ヨハネ6:38、
その一つに、
愛と尊敬において、
自由意思で、自発的に加わる者をと願って人を造られたようですね。
そして、エデンの園に置かれ、
御思いと思いを一つにしてそこを管理するようにされたのだそうです。
自己主張ではなく、
神と心を一つにし、
御思いが成ることを求める者は柔和になり、
地を受け継ぎ、
御思いのとおりに地を治めていく者にしていただけるのだそうです。
天の神、主は、ヨハネを通して、
スミルナ(エーゲ海に面するトルコ西部の町)にある教会に宛てて次のように書き送っておられます。
「初めであり、終わりである方、
死んで、また生きた方が言われる。
「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。
――しかしあなたは実際は富んでいる――
またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、
かえってサタンの会衆である人たちから、
ののしられていることも知っている。
あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。
見よ。悪魔はあなたがたをためすために、
あなたがたのある人たちを牢に投げ入れようとしている。
あなたがたは十日の間苦しみを受ける。
死に至るまで忠実でありなさい。
そうすれば、わたしはあなたがたにいのちの冠を与えよう。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。
勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない」(黙示録2:8~11新改訳)。
また、伝道者(ソロモン王)は言います。
あなたのパンを水の上に投げよ。
ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。
あなたの受ける分を7人か8人に分けておけ。
地上でどんな災いが起こるかあなたは知らないのだから。
雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。
木が南風や北風で倒されると、
その木は倒れた場所にそのままにある。
風を警戒している人は種を蒔かない。
雲を見ている人は刈り入れをしない。
あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、
風の道がどのようなものか知らない。
そのように、あなたはいっさいを行なわれる神のみわざを知らない。
朝のうちにあなたの種を蒔け。
夕方も手を放してはいけない。
あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。
二つとも同じようにうまくいくかもわからない。
光は快い。
太陽を見ることは目のために良い。
人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。
だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。
すべて起こることはみな、むなしい。
若い男よ。若いうちに楽しめ。
若い日にあなたの心を喜ばせよ。
あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。
しかし、これらすべての事において、
あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。
だから、あなたの心から悲しみを除き、
あなたの肉体から痛みを取り去れ。
若さも、青春も、むなしいからだ。(伝道の書11:1~10新改訳)
けれども、天の神、主に信頼していく者は、
新しい天と新しい地を受け継ぐのだそうですね。
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる、
御思いの中を。
今日も。
陰府の手の中から、不滅の命の中へと移してくださって
神は私の魂を贖(あがな)い、
陰府(よみ)の手から取り上げてくださる。詩49:16
イエス・キリストは死を滅ぼし、
福音を通して
不滅の命を現してくださいました。Ⅱテモテ1:10
フィリピ書1:19~26
コヘレト(伝道の書)7:1~14(通読箇所)
(ローズンゲン日々聖句;9/20;木)
天の神、主、
〔父である神〕は、
人となられた〔御子である神〕、
イエス・キリストを十字架刑で処刑することによって、
私たちの魂を死から贖い取り、
私たちを死の世界から買い戻してくださったのだそうです。
死を滅ぼし、
不滅の、永遠のいのちの中へと。
そして、
「生きることはキリスト」、
私が生きることがイエス・キリストが生きることにしてくださるのだそうです。
私自身の〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、
イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって
処刑された者、死んだものから出て来た思いとして、
神の御前に差し出し、受け取っていただきながら、
イエスを通して来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕の御思いを心に置いていただき、
イエスと同じように、
「自分からは何事もせず、
〔父である神〕がしようと思われることをしていく(ヨハネ6:38、8:28)者に
していただけるのだそうですから。
そして、「死ぬこともまた益」、
この世を去るならば、
イエスによる救いをいただいている者は、
天の御国(パラダイス)で、
イエスとともにいることになるのだそうですから(ピリピ1:19~26)。
死の日は生まれる日にまさる。
祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。
そこには、すべての人の終わりがあり、
生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。
悲しみは笑いにまさる。
顔の曇りによって心は良くなる。
知恵のある者の心は喪中の家に向き、
愚かな者の心は楽しみの家に向く。
知恵のある者の叱責を聞くのは、
愚かな者の歌を聞くのにまさる。
愚かな者の笑いは、
なべの下のいばらがはじける音に似ている。
これもまた、むなしい。
しいたげは知恵ある者を愚かにし、
まいないは心を滅ぼす。
ことの終わりは、その初めにまさり、
忍耐は、うぬぼれにまさる。
軽々しく心をいらだててはならない。
いらだちは愚かな者の胸にとどまるから。
「どうして、昔のほうが良かったのか」と言ってはならない。
このような問いは、知恵によるのではない。
資産を伴う知恵は良い。
日を見る人の益となる。
知恵の陰にいるのは、金銭の陰にいるようだ。
知恵の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。
神のみわざに目を留めよ。
神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。
順境の日には喜び、
逆境の日には反省せよ。
これもあれも神のなさること。
それは後の事を人にわからせないためである。〔コヘレト(伝道の書)7:1~14新改訳〕
なのだそうですから。
「生きるはキリスト」。
イエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
心に、〔父である神〕の御思いを置いていただき、
その、心に来た
〔父である神〕の御思いによって生きる者にしていただきながら。
永遠のいのちの中を、
今日も。
大海のどよめき、諸国の民の騒ぎも鎮めてくださり
あなたは 大海のどよめき、 諸国の民の騒ぎを鎮(しず)める方。詩65:8 あらゆる人知を超える神の平和が、 あなたがたの心と考えとを キリスト・イエスによって守るでしょう。フィリピ書4:7 使徒9:36~42 コヘレト(伝道の書)6:1~12(通読箇所) (ローズンゲン日々の聖句9/19;水) 天の神、主、 「『わたしはある(Iam)』という者」と名乗られる方は、 大海のどよめきを、 また、大海のどよめきのような諸国の民の騒ぎを鎮められる方。 私たちが、 この方に、 あらゆる思い煩いをお話ししていくとき、 その大能の御力をもって 私たちの心と考え、思いを、 キリスト・イエスにあって守り、 御自身の平安の中に包んでくださるのだそうです。 ヨッパという町にいた タビタ(ギ:ドルカス;かもしか)という女性が病気で死んだとき、 人々はルダという町にいたペテロに 使いを出し、来てもらったのだそうです。 ペテロが神に祈り、みこころを受けて、 「タビタ。起きなさい」というと、 神は彼女を生き返らせ、 悲しんでいるやもめたちに返されたように(使徒9:36~42)。 伝道者(ソロモン王;栄華を極め、やりたいことは全部やった人物)は言います。 私は日の下で、もう一つの悪があるのを見た。 それは人の上に重くのしかかっている。 神が富と財宝と誉れを与え、 彼の望むもので何一つ欠けたもののない人がいる。 しかし、神は、この人が楽しむことを許さず、 外国人がそれを楽しむようにされる。 これはむなしいことで、それは悪い病だ。 もし人が百人の子どもを持ち、 多くの年月を生き、 彼の年が多くなっても、 彼が幸いで満たされることなく、 墓にも葬られなかったなら、 私は言う。 死産の子どものほうが彼よりもましだと。 その子はむなしく生まれて来て、 やみの中に去り、 その名はやみの中に消される。 太陽も見ず、何も知らずに。 しかし、この子のほうが彼より安らかである。 彼が千年の倍も生きても、 ――しあわせな目にあわなければ―― 両者とも同じ所に行くのではないか。 人の労苦はみな、自分の口のためである。 しかし、その食欲は決して満たされない。 知恵のある者は、愚かな者より何がまさっていよう。 人々の前での生き方を知っている貧しい人も、何がまさっていよう。 目が見るところは、心があこがれることにまさる。 これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。 今あるものは、何であるか、 すでにその名がつけられ、 また彼がどんな人であるかも知られている。 彼は彼より力のある者と争うことはできない。 多く語れば、それだけむなしさを増す。 それは人にとって何の益になるだろう。 だれが知ろうか。 影のように過ごすむなしいつかのまの人生で、 何が人のために善であるかを。 だれが人に告げることができようか。 彼の後に、 日の下で何が起こるかを(伝道の書6:1~12新改訳)。 なのだそうですから。 心を通り過ぎる思いの一つ一つも知っていただきながら。 今日も。 |