カテゴリ: キリスト教

賀川豊彦(1888〔明治21〕~1960〔昭和35〕)の映画作品が、
5月末までの期間限定で、ユーチューブで、
賀川豊彦記念松沢資料館から公開されています。

〔戦前日本の労働運動、生活協同組合運動、協同組合保険(共済)運動で重要な役割を担い、
ノーベル平和賞候補にも選ばれたキリスト教社会運動家〕

■ 映画「死線を越えて」(60分版) ※5月末まで
■ 映画「一粒の麦」 ※5月末まで
■「A DAY WITH KAGAWA」(日本語音声・英語字幕)
■「賀川豊彦とはどのような人物か」(日本語音声・英語字幕)
賀川豊彦記念松沢資料館で検索してください。

あなたは弱い者の砦、
苦難に遭う貧しい者の砦、
豪雨を逃れる避け処、
暴虐な者の壁となってくださる。イザヤ書254

 誰が、
キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。
艱難か。苦しみか。迫害か。
飢えか。裸か。危険か。剣か。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださる方によって
輝かしい勝利を収めています。ロマ書83537

 ヨブ記2110
 レビ記25112(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/14;火)

天の神、主、「わたしはある」という者と名乗られる方は、
弱い者、霊の貧しい者を守る砦、
豪雨の時の避け処、暴虐な者の攻撃を防ぐ壁となってくださる方なのだそうですね。
だから、迫ってくるどんな困難からも、守っていただけるのだそうです。

 また、私たちを罪に定めるよう、
神の前に私たちを告訴する者がいるのだそうです(ヨブ2110)。

 それで、〔父である神〕は、〔御子である神〕を人として、人の世に遣わし、
この方を私たちの身代わりとして立てて、十字架刑で公開処刑し、
神に反逆した者、神に呪われた者として、天と地の間に高く掲げられ、
すべての人の反逆の罪が処刑され、処罰済みとされたことを公示してくださり、
これを受け入れる者の〔生まれた時からの霊〕を処刑された者、死んだ者と手続してくださるのだそうです。

 そのうえで、死んだ者が新しく生きるための、新しい霊として〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださり、この方によってご自身の一人一人に対する御思いを受け入れる者の心に置いてくださるので、受け入れる者は、天の神、主と同じ思いを持つ者、ご自身と心を一つにして生きる者にし、「われわれのかたち、われわれに似せたもの」(創世記1:26)として、相続権を持つ、神の〔子〕の身分を与え、ご自身の家族としてくださるのだそうです。

 だから、この神に逆らって、サタンがどんなに私たちを告訴しても、この神からのプレゼントを受け入れた者の、そのすべての罪は処罰済みとして、その告訴は却下され、退けられるのだそうです。

 誰も、どんな霊的な存在も、この、イエスによる救いを受け入れる者を罪に定めさせ、神の愛から引き離すことはできないのだそうです。

 この救いを受け入れる者は、予告されているとおり(レビ251~12)、神の安息にあずかるものとして、輝かしい勝利、圧倒的な勝利者として、新しい御国(黙示録2122章)を受け継ぐ者ともしていただけるのだそうですから。
今日も。
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なぜうなだれるのか、
私の魂よ、なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
私はなお、告白しよう、
「神こそ、私の救い」と。
私の神よ。詩編4212

 あなたがたは悲しむが、
その悲しみは喜びに代わる。ヨハネ1620

 申命記81118
 レビ記9124(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/8;水)

 「お前の神はどこにいるのか」とか、
「神は見ていない。私たちが善をしても悪をしても、神は何にもしない」とか、
「神は死んだ」とか、人は心に思い、言うのですね。

 また、食べて満ち足り、立派な家に住み、富が増し加わると、心高ぶり、
「この私の力、わたしの手の力が、この富を築き上げたのだ」と心に思うのですね(申命記81118)。

 それで、神を求める心は、内にうなだれ、思い乱れることになります。
しかし、詩編の作者は言うのですね。
「神を待ち望め」と。


 天の神、主は、イスラエルの民に、民がご自分と和解し、神の前に出るために、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって、神にそむき、神に対立、対抗している自分の身代わりとして、子牛や小羊を全焼のいけにえとしてささげ、その血を神の前に注ぐよう命じ、身代わりのものの処刑により、背きの罪が赦され、神と民との和解の道が開けることを予告して来られました(レビ9124)。

 そして、1500年の時を経て、その予告のとおりに、イエスは、私たち、すべての人間の身代わりとなり、すべてのそむきの責任を負って、神にそむく者、神に呪われた者として、十字架刑での処刑を受けようとしておられる、その前夜の夕食の席で弟子たちに言われました。
「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と。
「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度、あなたがたに会います。
そうすればあなたがたの心は喜びに満たされます」(ヨハネ162022)と。

 イエスが、十字架に架かられたのは、金曜日の朝の9時頃。そして、(手続きは)「完了した」と言われて息を父である神にお渡しになったのは午後の3時だったそうです(ルカ23:44)。

日没からは、過ぎ越しの祭りの安息日が始まるので、イエスは、隠れ弟子であったアリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓が近くにあったので、急いで、そこに葬られたのだそうです。

けれども、イエスは、三日目、日曜日の早朝、死から、新しい霊のからだで復活し、40日に渡って何度も弟子たちに現れ、絶望と悲しみの中にあった弟子たちは喜びに満たされたのだそうです。

イエスは、弟子たちのみている前で、オリーブ山から、天の父である神の右の座、御子である神の位に帰られたのだそうです。
それから10日後の五旬節(ペンテコステ)の祭りの日に、イエスが言われた、「父である神の約束」の、〔聖である霊〕と呼ばれる方が弟子たちに来てくださり、弟子たちの心に〔父である神〕の御思いを置いてくださったので(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:25~28)、弟子たちは、この〔聖である霊〕と呼ばれる方による、御父の御思いのままに話し出し(使徒214)、みんなの前で、50日前に、十字架刑で公開処刑されたあのイエスが、復活し、今、約束の〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られていることを大胆に証言するようになったのだそうです。
そして、その、イエスの復活の証言は、エルサレムから始まって、ユダヤとサマリヤの全土、
そして、地の果て、東の果ての日本にまで伝えられているのですね。

 今、悲しんでいる者も、この方をお迎えするとき、
その悲しみは喜びに変わるのだそうです。
今日も。
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悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、
神の子が現れたのです。Ⅰヨハネ38b3/5の週の聖句

 見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。
わたしは大地に飢えを送る。
それはパンに飢えることででもなく、
水に渇くことでもなく、
主の言葉を聞くことができぬ飢えと渇きだ。
人々は主の言葉を探し求めるが、
見いだすことはできない。アモス書81112

 シモン・ペトロの言葉:
主よ、私たちはだれのところに行きましょうか。
あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、
また知っています。ヨハネ66869

 マタイ4111
 詩編6(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/5;Ⅰ日)

 善きもの、それはすべて、天の神、主から出ているのだそうです(ヤコブ117)。
そして、悪魔に誘われて、自分で、さらに善きものになろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になった」(創世記3522)時、人がその心に計ることはみな、悪いことだけに傾くようになり(創世記65)、人の世は暴虐で満ちる世になったのだそうです(創世記6 :11) 。

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、この悪魔の働き、人を「神のひとりのようになり、善悪を知る者」にさせた業を滅ぼし、「われわれのかたちとして、われわれに似た」者に(創世記126)取り戻し、
〔父である神」、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしておられる、その一つの中に加わる者にしようとしてくださっているのだそうです(ヨハネ172123)。

 それで、まず、〔神の子〕である方が、人が、天の神、主にそむき、離反し、神に対立、対抗している、〔的はずれ〕になっている責任を取り、人間の身代わりになって、私たち人間が受けるはずの処罰を、ご自身が受けるために、〔女の子孫〕として(創世記315)、ダビデ王家の子孫、処女マリヤを通して、ベツレヘムで生まれ、人間イエスとして人の世に現れて下さったのだそうです(ヨハネ114)。

 そして、およそ33歳の頃、当時のユダヤの指導者の妬みにより、ローマ兵を用い、十字架刑での処刑を受けられ、受け入れる者の「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、〔生まれたときからの霊〕を、ご自分の十字架刑での処刑に合わせてくださり、処刑されたもの、死んだものと、手続きしてくださるのだそうです。

 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、この方によって、〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いを受け入れる者の心に置いてくださり、受け入れる者が、御自身と同じ思いを持ち、一つ心になるようにしてくださり、「われわれのかたち、われわれに似た」者に回復してくださるのだそうです。

私たちが、この天の神、主からの恵みのプレゼントを受け取るなら、悪魔の業は打ち砕かれ、滅ぼされることになるのだそうです。

 今は、恵みの時、救いの日なのだそうですが、やがて、この時が閉じられるときが来るのだそうです。
閉じられれば、もう、この恵みの言葉、救いの言葉を聞くことができなくなるようです。
どんなに飢え渇き、求めても。

 また、世の中には、人を善いものにする、いろいろな道、教えがあります。
「分け登るふもとの道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」と言われていますけれど、この天の神、主との〔一つ〕に到達できる道は、ペテロが言うように、このイエスによる、狭き門から入る道だけのようです。

 また、悪魔は、書かれた〔神のことば〕によって、私たちを「善悪を知る者」にならせようと誘惑して来ますが、そのようなときも、私たちは自分の理性の判断に頼らず、〔聖である霊〕と呼ばれる方に聞いて、書かれた〔神のことば〕の奥にある、神の本当の御思いと一つ思いになって、悪魔に対応していく者にもしていただけるようですね。
イエスのように(マタイ4111)。
ただ、天の神、主のあわれみと恵み、助けにより(詩篇6)。
この新しい週も。
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神は計り難く大きな業を、
  数知れぬ不思議な業を成し遂げられる。ヨブ記Job910

 私たちは皆、
この方の満ちあふれる豊かさの中から、
恵みの上に、さらに恵みを受けた。ヨハネJohn116

 イザヤ書Isaiah4259
 ルカLuke11825
      (ローズンゲン日々の聖句12/20;火)

 神々と呼ばれるものはたくさんあります。
しかし、聖書が伝える神は、
天を造り出し、これを引き延べ、地とその産物を押し広め、
その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた方なのだそうです。(イザヤIsaiah425

 そして、その測りがたい大きな、不思議な業の最大のもの、
天使たちもかたずをのんで見守っていた、
「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」(Ⅰコリント1Corinthians29)、

それが、御子、独り子である方が、人間、一人の人、イエスして人の世に来られ、
救い主として、私たちすべて人間の、そむきの責任のすべてを身に負って、
反逆者として、神に背き、神に呪われた者となって、
十字架刑での処刑を受けられることだったのだそうです。

 そのうえで、このイエスの死を自分の死と受け取り、
背きの罪の処罰が終わった者、
「生まれた時からの霊」をイエスの十字架刑での処刑に合わせて処刑された者、
死んだ者としてもらっていることを受け入れた者に、
もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣されることだったのだそうです。

 創造の目的から(創世記Genesis126)「的外れ」になってしまい(創世記Genesis3522)、
処罰され、滅びるはずの者の中に、
「聖」である方、ねたむほどに愛しておられる方が来られる。

 そして、受け入れる者の心に、
「父である神」が一人一人に思っておられる御思いを書きしるして、
受け入れる者が「父である神」と同じ思いを思い、一つ心になる。

 「父である神」は、その方、イエスを義をもって召し、
その手を握り、見守り、その方を民の契約とし、国々の光とし、
見えない目を開き、
囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出すのだそうです(イザヤIsaiah4267)から。
今日も。
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主のなさった大いなる御業をすべて、
あなたたちは自分の目で見てきた。
申命記11:7
 私たちが見、また聞いたことを、
あなたがたにも伝えるのは、

あなたがたも
私たちとの交わりを持つようになるためです
。Ⅰヨハネ1:3
         (ローズンゲン日々の聖句7/8;水)
 「交わり」という言葉には、「共通部分」という意味もあるようです
「一つのものを共に持つこと」でもあるのでしょうか。
 モーセは、イスラエルの民の共通部分として、
天の神、主が、イスラエルをエジプトから連れ出される時
行われた大いなる御業、
また、エジプトを出てからの荒野での40年の旅路において
なされた大いなる御業を目撃した
その共通体験を上げているようです。
 そして、それから1500年後のイエスの使徒ヨハネは、
私たちの共通部分として、
イエスという人物をとおして私たち人間に現された
天の神、主の御思いを上げているようです。
 それは、天地が創造される前からあったものであり、
ヨハネたち、3年半をイエスとともに過ごした者たちが
自分の耳で聞いたもの、
じっと見、手で触ったもの、なのだそうです。
つまり、人間の思索の産物ではなく、
事実として体験したものだということのようですね。
 その体験とは、
いのちのことば、永遠のいのちと言われているものであり、
イエスという人物をとおして語りかけられている、
天の神、主の御思いであり、
その御思いを、私たちの、
またさらには、天の神、主、
御父と呼ばれる方、御子である神と呼ばれる方と
私たち一人一人との共通部分として
体験して知るということのようです。
 イエスの使徒、ヨハネは、私たちとの
そのような共通部分になるようにと、
イエスに関わる喜ばしい知らせを証言し、伝えると
言っているようですね(Ⅰヨハネ1:1~4)。
 「主は生きておられる。」
 主は、生きておられ、私たちに対して、
私たちをとおして、働いておられる方、
私たちも、聞き、じっと見、また手で触れられる方、
のようですね。
今日も。
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やもめ、
みなしご、
寄留者、
貧しい者らを
虐げてはならない。
ゼカリヤ書710
 人が
なすべき善を
知りながら、
それを
行わないのは、
その人にとって
罪です。
ヤコブ書417
(ローズンゲン日々の聖句7/29;火)
正しいさばきを行い、
互いに誠実をつくし、
憐み合え、
互いに心の中で悪をたくらむなと
あの方は
おっしゃっておられます。
けれども、
私たち人間は、
自分が一番になろうとし、
良いものを自分一人で独占しようとし、
人を
(他の会社を)
引きずりおろすことに
血道をあげているのですね。
イスラエル1500年の歴史において、
あの方は、
人が
なすべき善を知れば、
それを
行うことができるか、
実験をされたわけですけれど、
人は
あの方の言葉を聞こうともせず、
肩を怒らし、
耳をふさいで聞き入れなかった
ゼカリヤ711
のが現実であったようです。
また、
本気でこれを守ろうとした人も、
「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、
それを実行することがない。
私は、
自分でしたいと思う善を
行わないで、
かえって、
したくない悪を
行っています。
私は
ほんとうに
みじめな人間です。
だれが
この死のからだから、
私を
救い出してくれるのでしょうか。」
(ロマ7192024)と
言うほかなかったのだそうです。
これが、
あの方と思いを一つにすることを
厭い、
自分が
善悪を判断する者となった
(創世記322
人間の実態と
いうことなのでしょうね。
このことがはっきり現れた時点で、
あの方は
もう一つの道を
約束され
(エレミヤ313134、エゼキエル362528)、
それを、
この人間の歴史のただ中で
具体的に
実現されたのですね。
(ヨハネ1721231930、使徒214
新しい霊とか、
聖である霊と呼ばれている方を
お迎えし、
心に
あの方の御思いが来るように
していただいている者は、
「やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者ら」を
思いやることにおいても、
あの方と
思いが一つになるのだそうです。
今日も。
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咎を除き、
罪を赦されるような神があろうか。
神は
御自分の嗣業の民の残りの者に、
いつまでも
怒りを保たれることはない、
神は
慈しみを喜ばれるゆえに。
ミカ書7:18
 
神は、
私たちを
怒りに定められたのではなく、
私たちの主イエス・キリストによる
救いに
あずからせるよう
定められたのです
Ⅰテサロニケ5:9
(ローズンゲン日々の聖句6/3;火)
...
いつまでも怒っておられる方ではないのだそうですね。
創造の目的である
「我々にかたどり、我々に似せて」
(創世記1:26)
造られた場から外れ、
「人は我々の一人のように、
善悪を知る者」
(創世記3:22)
となり、
出来損ないになってしまった私たちですが、
そのような私たちにも、
怒りではなく、
慈しみと憐みをもって接して下さり、
主イエス・キリストによって
回復の道を
用意して下さっているのだそうですね。
十字架刑で処刑され、
ローマ兵によって槍で突き刺されて死亡が確認され、
墓に葬られた
イエス。
けれども、
あの方は、
その
黄泉にまで下られたイエスを、
日曜日の朝早く、
復活させ、
40日にわたって、
何度も弟子たちに現れ、
弟子たちを
復活の目撃者、証人としたうえで
天に帰らせ、
今度は、イ
エスに代わって、
もう一人の助け主、
聖である霊と呼ばれる方を
私たちに派遣して、
「父である方が、御子イエスにおられ、
御子イエスが父である方の中にいるように、
私たち人間が父である方と御子イエスの中におり、
父である方と御子イエスが私たち人間の中におられるようになり、
父である方、御子である方、聖である霊と呼ばれる方が一つになっておられるように、
私たち人間も
あの方と完全に一つにして下さるのだそうです
(ヨハネ17:21~23)。
イエスが、
父である方と思いを一つにし、
父である方がしようと思われることだけをしておられるように、
聖である霊と呼ばれる方は、
私たちのうちにあって、
父である方の思いを私たちの思いに入れて下さって
(エゼキエル36:26~27)、
私たちを、
父である方と思いを一つにする者、
父である方がしようと思われることをする者と
して下さるのだそうです
(ヨハネ14:10~12)。
イエスのように、
心に来る父である方の御思いの通りに踏み出してみて、
父である方が、
今日、
私を通して
しようとされることを
していきたいですね。
私たち。
今日も。
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彼らは
あなたに
戦いを挑むが、
勝つことはできない。
わたしが
あなたと共にいて、
救い出すと、
主は
言われた。
エレミヤ書1:19
 
祭司長たちや律法学者たちは、
イエスを
どのようにして殺そうかと
謀った。
群衆が
その教えに
打たれていたので、
彼らは
イエスを
恐れたからである。
マルコ11:18
  
(ローズンゲン日々の聖句3/5;水)
南王国ユダの人々に
北からの脅威を予告し、
まことに神に立ち返るよう勧める
エレミヤ。
しかし、
国の指導者たちは
そのエレミヤを
殺そうと謀るのだそうですけれど、
あの方は、
わたしがあなたと共にいて
救い出すから、
彼らは
あなたに勝つことはできないと
言われたのだそうですね。
そのときから、
時代は
600年ほど下って、
「神に立ち返りなさい。
天の御国が近づいたから」と
宣教を開始されたイエス。
その
教えと
力ある御業のゆえに
多くの人がイエスに従ったため、
妬みにかられ、
どうにかして
イエスを殺そうと謀る
国の指導者、
祭司長や律法学者たち。
けれども、
このとき、
あの方は
エレミヤの時とはちがい、
沈黙を守られたかのようですね。
それどころか、
むしろ
「彼は
罰せられ、
神に打たれ、
苦しめられた」
(イザヤ53:4)
かのように
見えたようです。
「私たちが一つであるように、
わたしたちと一つになる者を」
との
創造の目的に
私たちを回復するためには、
あの方にとっても
イエスご自身にとっても
避けて通ることのできない
苦難だったのだそうです。
その
イエスの苦難が
成就した
今は、
私たちが承諾さえすれば、
イエスによって
「聖である霊」と呼ばれている方が
私たちの内に来て下さり、
あの方の思いと
私たちの心の思いを
一つにして下さるのだそうです。
だから、
心に起こる思いに
気を配っていきましょう。
今日も。
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主は
地の果てまで
裁きを及ぼし、
王に
力を与えてくださる。
サムエル記上2:10
 
神は、
キリストを
死者の中から復活させ、
天において
御自分の右の座に着かせ、
すべての
支配、権威、勢力、主権の上に
置き、
今の世ばかりでなく、
来るべき世にも唱えられる
あらゆる名の上に
置かれました。
エフェソ書1:20~21
  
(ローズンゲン日々の聖句2/26;水)
私たちが見とれるような姿もなく、
輝きもなく、
私たちが慕うような
見栄えもなく、
さげすまれ、
のけ者にされ、
悲しみの人で
病を知っていた方、
ご自分の国に来られたのに、
ご自分の民から捨てられ、
十字架刑で処刑された方、
イエス。
けれども、
それは
天地創造の前から
あの方の御思いの中で
定まっていたことなのだそうですね。
それで、
あの方は、
彼を
新しい霊のからだに復活させ、
天に帰らせ、
もともとついておられた位置、
ご自分の右の座に
就かせ、
あらゆる名の上に
置かれたのだそうです。
全ての支配、権威、勢力、主権は
造られたものの側にあるのですが、
この方は、
創造主の側の御座に
ついておられるのだそうですから。
やがて、
私たちが御前に出るとき、
その御座についておられる方は、
屠られたとみられる小羊、
十字架刑で受けた
釘の穴、
突き刺された
槍の傷跡を
持った方なのだそうですね。
私たちの
はずれの責任を
一身に背負って
処刑されて下さった方を
私たちは
御座に仰ぐことになるのだそうです。
その時になって、
はじめて悟るのではなく、
御国に向かっての、
今の旅路においても、
この方を
私の救い主、
主と
仰ぎ、
全てのことを
この方と相談し、
心を一つにしながら
歩んでいきたいですね。
今日も。
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